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「比較する神を拒否する」20240915

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「比較する神を拒否する」20240915

聖書 創世記 四章一節〜十六節
 

【カインとアベル】

 今日は、創世記に出てくる最初の殺人、アダムの息子カインとアベル兄弟の物語を選びました。
 今まで怖がって誰も言わなかったことを言うつもりですから楽しみに聞いてください。
 さて、兄カインは土を耕す仕事に就き、弟アベルは羊飼いになりました。時が経ち、カインは土の実りを、アベルは羊の群れから肥えた初子(ういご)を神に捧げたところ、「主(神)は、アベルとその献げ物に目を留めましたが、カインとその献げ物に目を留めなかった」とあります。
 神が弟だけを見て、自分を見てくれないことに、兄カインは激しく憤(いきどお)りました。カインが認められなかった理由が述べられていないので、カインが憤るのももっともです。嫌な感じが残る物語です。
 伝統的には、カインよりもアベルの献げ物の方が優れていたと解釈されています。ヘブル書の著者は「信仰によって、アベルはカインよりも優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです」(ヘブライ人への手紙十一章四節)と書いています。しかし、物語の本文に献げ物の優劣は書かれていないので認められません。
 苛立っているカインを逆撫で(さかなで)するように「なぜ怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。自分がいいと思っているならば顔を上げればいいではないか。もし、自分でいいと思ってやっていないのならば、君を慕(した)い求めている罪への入口に向かって君は四つん這いになっている。君はそれ(罪)を支配しなくちゃいけない」などと神が語ります。

 すると神の言葉を実行しなければならないかのように、カインは弟を野原に呼び出して殺してしまうのです。この殺人は「比較と評価と嫉妬」が生み出した事件です。カインだけが悪者扱いされることが多いですけれども、神の身勝手が人間に争いを招いたのですから、こんな状況を作り出した神話の神にも責任があるはずです。

 
【神話は報道記事じゃなくて神話です】
 神話はニュースの報道記事じゃありません。事件を見たり調べた人が書いた記録ではないにもかかわらず、神が、「アベルとその献げ物に目を留めたが、カインとその献げ物に目を留めなかった」などと平気で書いています。もしそうだとすれば、神話の神は捧げ物によって対応を変えるということです。
 カインとアベルの仕事は違うのですから捧げ物の種類も当然異なっているのです。比べようがないものを比べた神は間違っています。怖がって誰も言いませんが、こんな神は間違っています。
 少しでも良い貢物(みつぎもの)をくれた方を優遇する神なんてケチくさい小役人と同じですから、そんな神の言葉に従う必要はないのです。
 神話の著者たちは、神は万物の創造者であると宣言した後に、捧げ物によって対応を変える神を登場させたのですから、こんな神が居ては困ると民衆が素直に感じることができるように、こんな物語を書いたに違いありません。
 神は献げ物や献げる人の心の状態を見て対処するとか、神は何をしてもいいのだと言うのは神の身勝手な論理です。これに反論できないのは、神を恐れて、言わねばならないことを何も言えない人です。良かれと思ってしたことを拒否するような神がいては困ります。そんな神や支配者を認めてはならないという事を伝えるのが神話の著者たちの真意であったろうとぼくは解釈しています。傲慢な神の言い分をそのまま教えている人々は著者たちの真意を理解できていないだけです。
 半分冗談をいいますと、野の産物、つまり穀物や野菜よりも、肉を喜ぶのは、神の自由です。しかしこんなわがままを許してきたから、変な神話の神の概念が変な世の中を作ってしまったのです。
 アベルの捧げ物だけに注目してアベルだけを優遇する神や支配者は居ないほうが善いのです。
 
【神の態度に負けたカイン】
 神話の神の態度を受け入れてしまい、弟を羨(うらや)んで殺したカインという登場人物も気の小さいやつですけれども、そんなカインに嫉妬(しっと)させる神はもっと下劣です。
 「罪は君を慕い求めるけれども、君はそれ(罪)を支配しなくちゃいけない」とカインは言われました。しかし、罪に支配されないで、罪をコントロール(支配)すればよかったのです。
 
【罪に実態はない】

 「罪」という言葉は、カインとアベルの物語の中に初めて登場します。前に言いましたように、アダムが神の命令に背いた物語に「罪」という言葉は使われておりません。

 いま見て来たように、人々が比較評価されて「バラバラにされて通じ合わなくなっている状態」、「社会の中で分断された組織構造」「すれ違った関係」の状態を表しているのが「罪」という言葉です。「罪は」実体じゃありません。すれ違った関係状態を表す言葉です。

 比較され評価されたと自分勝手に思い込んで、他人を憎むような罪の状態に支配されないで、逆にそういう状態を抑え込んで自分が支配(コントロール)すべきなのです。自分が良かれと思ってしたことを、疚(やま)しく思う必要などありません。カインは堂々と顔を上げればよかったのです。神が自分たちを比較し評価していると考えて自分たちの間で評価し合ってはなりません。比較できないものを評価してはなりません。
 神話の著者たちが、人を比較評価する神を描いて見せたのは、そんな神や支配者を拒否すべきだと気づかせるためだったと思います。

 

【僕たちは】
 「徴税人や遊女のほうが宗教指導者より先に神の国に入る」(マタイ二十一章三十一節)と言ったイエスはあなたを他人と比較せず、素のままのあなたを受け入れ(愛して)ると宣言しました。
 「そのままで受け入れられている」という事実を受け入れる。そんな状態が「信仰」であり「愛」です。比較評価し合う状態の「罪」を作る神話の神を、ぼくは拒否します。
 社会の階層を生むために作られた「罪」を、イエスは拒否しました。神話の神が何と言おうが、歪(いが)み合う関係状態に陥(おちい)らず、関係状態を自分でコントロールしましょう。神に対する人の罪なんか存在しません。

 人と人の間には、「すれ違いのような状態の罪」は、常に起こり得ますけれども、ぼくたちは人間同士(他者と他者、他者と自分)を比較評価しないで、受け入れ合う状態を作るように、自分でコントロールすることにいたしましょう。

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