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「断絶・イエスとキリスト」20240804
「断絶・イエスとキリスト」20240804
聖書 第一 コリント 十五章一節〜五節
【先入観は怖い】
東京の神学校では礼拝の時間が毎日ありました。ある日、アフリカのどこかで宣教師をしておられた方が説教の初めに、現地の人が描いた聖画を見せてくださいました。そのイエスの風貌(ふうぼう)は、黒い肌、ちぢれた黒髪で、民族衣装を纏(まと)っていました。白い衣を纏った長い金髪の白人のイエスを西洋の絵画や映画で見慣れていたぼくは嫌悪感(けんおかん)を覚えました。
初めて見たものや聞いたことが頭の中に刷り込まれるという話があります通り、初めて見たイエスのイメージがぼくの中に定着していて、他のイメージを、頭が拒否したのです。
しかし、冷静に考えれば、ヨーロッパ人でなかった人間イエスが金髪の白人であるはずありません。白人至上主義のクリスチャンは悲しむでしょうが、イエスの肌は白くありません。
このように、風貌だけを考えても、ぼくらは大きく勘違いして来ました。他にも勘違いさせられていることがあるはずです。先入観に縛られず、今日も聖書を読んでまいりましょう。
【マルコ福音書はイエスの物語】
イエスを知るには福音書を読むしかありません。しかし、最初に書かれたマルコ福音書でさえ紀元七十年ころの著作です。その頃までに教会はかなり組織化していたはずです。そんな背景の中で、教会組織に対立するようなイエス伝をマルコが書いたのはすごいことです。しかも、著者マルコは生前のイエスに逢ったことがないのです。
【教会の福音とマルコの福音】
キリスト教の福音とは何ですかという問いを投げかけてくる人は、福音とはこんなものですよと一言で答えてもらう事を期待しているでしょう。しかし、マルコは、福音を短い言葉にまとめることに反対だったので、物語でイエスの福音を伝えることにしたようです。マルコは、自分が書いた福音書の最初から最後までの一連の物語がイエスの福音だと言わんばかりに、まるで紙芝居や演劇を始める時のように、「イエスの福音(物語)の始まり始まり」という口上(こうじょう)で福音書を書き出しました。
一方、マルコが福音書を書く前から教理問答集のように短くまとめた言葉があったようです。
たとえば、パウロが「これをしっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」と書いてから紹介している言葉がそれです。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわちキリストが、聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと、また、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(第一コリント・十五章三節から五節)
これはパウロよりも早い時期に教会が纏め上げた教理の言葉です。パウロも教会からこの言葉を教えられたのです。「キリスト」が主語になっていることからキリスト教会が纏めた言葉であることは確かです。短く覚えやすく纏められていることは認めますけれども、問題は人間の生活の実態が何も語られていないことです。
キリストを主語にして語られた言葉には、人間イエスの生き様も、イエスを取り囲んでいた群衆の生活もすっかり抜け落ちています。ですから、これだけを覚えていれば救われると教えられても、何からどのように救われるのか、具体的にはまったく見えてこないというのが実情です。生身の人間の苦悩も、イエスが生き様を通して伝えようとした福音もまったく見えてこないのです。
他の宗教と同じように、形而上学的な言葉に流れていくキリスト教会の中に居て、人間イエスの生き様が消えていく現状に反発を覚えたマルコは、人間イエスの生き様を掘り返して人前に晒すためにイエスの物語を書いたのだと思います。時はすでに教会組織が勢力を伸ばし始めていた状況でイエスの物語を示そうとしたマルコは相当な反発を受けたでしょう。しかしそれでも、各地にイエスとの出会いを記憶していた人も残っていたでしょうし、イエスの物語は記録されていたのでしょう。
【人間イエスとキリストは異なる】
このように考えれば、キリスト教会が教えているキリストと、マルコ福音書が伝えているイエスが、まったく別ものであるということを事実として認めていただけたでしょう。
イエス・キリストは神の子だと最初から教えられた通りに信じてこられた方々には受け入れ難い事実だと思いますけれども、とにかく、生前のイエスは、生まれ育てられ殺されたのですから、ぼくらと何の違いもない人間だったのです。
マルコ福音書の人間イエスは、後の時代に自分がメシアに担ぎ上げられることなど、期待するどころか、想像さえしていませんでした。そんな人間イエスを伝えたマルコは最初からキリスト教会の教理に対立していたのです。
マルコ以外の福音書は、生まれと十字架の死と復活から昇天まで、イエスがキリストとして歩まれたように描いています。しかし、生前の人間イエスのみを語ったマルコ福音書はイエスを神がかりなキリストのように描きませんでした。
イエスはキリストであるという先入観を持っておられるかたには通じにくい事を承知で申しますと、霊性じゃなくて冷静に読めば、マルコは、キリスト教会に居ながらも、キリストに担ぎ上げられる前の人間イエスを描いたのです。だからマルコ福音書は一六章八節で終わっています。死後のイエスを弟子たちの前に登場させません。女たちは天使のような若者からイエスが起こされたと知らされたけれども、弟子たちに知らせなかったとありますので、弟子たちはイエスの復活に気づきもしなかったとマルコは伝えているのです。生前のイエスの物語はここで終わりです。
イエスは生前の生活の拠点であったガリラヤでの実生活の中で生きて働いているとマルコは言います。これもキリストとは関係ありません。
一方、教会が作った福音の言葉によれば、復活したイエスはまずペトロに姿を現したことになっていますし、女は無視されています。
殺されたイエスは復活して、死を克服したキリスト、神の子になって、弟子たちに全世界への宣教命令を出して、天に昇って行きます。とにかく、マルコ以外の福音書はキリストを主役として、キリスト教の立場から纏めたものです。とにかく、人間イエスと概念のキリストは関係ありません。
【ぼくたちは】
概念のキリストではなく、人間イエスだけがぼくらの実生活に関係あるのです。ですから、ぼくは、これからも人間イエスの生き様に目を注いでいきたいと思っています。