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2022-02-27 10:06:00
 
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熊本城天守(令和3年4月撮影)© SankeiBiz 提供 熊本城天守(令和3年4月撮影)

熊本に発祥したローカルラーメンがグローバルを制す! アメリカに次ぐポジションにつき、経済大国を標榜し始めた中国。14億の人民を魅了した一杯を追えば、「失われた20年」にも粘る日本ラーメンのバイタリティが見える。その時代に台頭したラーメン店に焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を活写する本連載。今回は、中国本土をはじめ世界に750店以上を擁する『味千ラーメン』に迫る。

2010年の中国外食シーンを熊本ラーメンのレジェンドが席巻

世界最大、約14億の巨大人口を擁して改革開放後の経済をドライブさせてきた中国。2010年、そのGDPは日本を抜いて世界第2位となった。40年以上も守り続けたNo.2の席を失い、新興中国の後塵を拝することとなった日本。しかし、その巨龍の身中には豚骨香るホットなラーメンが勢いを見せていた。

2010年、中国料理協会が選出した「中国ファストフード企業トップ50」を引こう。米国のヤム・ブランズ(ケンタッキーフライドチキン、ピザハットなどを運営)、同じくマクドナルド、台湾発のファストフードであるディコスに次ぎ、4位にランクインしたのが『味千ラーメン』である。

この店が熊本県庁正門横にオープンしたのは1968年。奇しくも日本が西ドイツ(当時)を抜き、世界2位の経済大国にのし上がった年であり、東京では本連載で紹介した『ラーメン二郎』が創業している。さて、そんな味千ラーメンの出で立ちは? 白濁豚骨スープがどっしりと構え、ネギ、チャーシューといったスタンダード具材に加えてキクラゲも存在感を発揮。ストレート中太麺が泳ぐ、重厚な九州ラーメンらしい一杯だ。お品書きを見れば漆黒の香味油がスープ表面にたゆたう「黒マー油ラーメン」なるメニューも目に留まる。

この味千ラーメン、有力ご当地麺「熊本ラーメン」誕生の一幕に深く関わったキー店でもある。1950-60年代の九州ラーメン年譜を紐解き、熊本ラーメンの出自を振り返ってみよう。

九州ラーメンの多くは豚骨ダシをベースとする白濁スープだが、この「とんこつスープ」が生まれたのは福岡県久留米市である。1937年、西鉄久留米駅前に屋台として出店した『南京千両』が開業。そして、1947年に、同じく屋台の『三九』が、仕込みプロセスの偶然の産物として白濁スープを世に出した。「煮込みすぎて白く濁ったスープに味付けをしてみたらおいしかった」――これが白濁豚骨スープ誕生のセレンディピティである。

ブレイクした久留米ラーメンは九州各地に伝播。久留米から県境を挟んでほど近い熊本県玉名市にも、1952年に『三九』の屋台が久留米から出店し話題となる。その噂を聞きつけ、ラーメン技能の習得を目指し、熊本市から3人の男が玉名市にやってきた。その中のひとりが熊本ラーメンの古豪『こむらさき』を創業した山中安敏、そして『味千ラーメン』の創業者・重光孝治である。

九州各地で開花した多くのラーメンは、久留米のデッドコピーに堕すことなく、それぞれ独自の装いを纏って立ち上がった。熊本では豚骨に加えて鶏ガラ、キャベツなどの野菜も出汁に使われ、まろやかなスープが作られる。そして、強化パーツとして投入されたのが「ニンニク」だ。ニンニクを油で炒め、寸胴に加える手法が開発されたのだ。台湾をルーツとし、中国食文化圏の料理に通じていた重光孝治は、その発案者のひとりと言われる。

『味千ラーメン』『こむらさき』『桂花』といったアーリー熊本ラーメンの名店は、この手法を先鋭化。炙ってから乾燥させたニンニクチップ、揚げ工程を経たガーリックチップ、ニンニクを揚げて香りを移した香味油「マー油」が開発され、熊本ラーメンに無二のオリジナリティを付与することとなる。

店舗個々が実力をつけ、そして同じコアパーツを擁するラーメン集団としても強みを持った。熊本ラーメンは有力なご当地麺として認知度を着実に高めていくが、フリークをはじめ中央のラーメン論壇で認知されたのは、東京進出でブレイクした『桂花』、そして『新横浜ラーメン博物館』の出店で注目を集めた『こむらさき』といった面々。『味千ラーメン』は九州地方を中心に勢力を広げたが、東京には出店しなかった。現在、最も東にある店舗でも静岡県の掛川インター店である。首都圏での出店を経ずして、中国からグローバルへの飛躍。このリープフロッグはいかにしてなし得られたのか……?

麺料理の本場に逆輸入で躍進した「日式拉麺」

日本のラーメンが海外への雄飛を図ったのは1980年代以降のことだ。グローバルでは麺料理の一つとして「Ramen」が定着しており、中国、香港、台湾といった漢字文化圏では「日式拉麺」として受容されている。

中国大陸における日本式ラーメン店の橋頭堡は、1986年に北京にオープンした『新僑二幸』と言われる。日本の商社と北京の大手ホテル新僑飯店の合弁レストランとして開業した。ただ、カウンタータイプの日本ラーメン店のスタイルを現地にそのまま持ち込んだもので、主なターゲットは現地の邦人駐在員。広く中国人民に向けた「日式拉麺」に至ってはいなかった。

その後、商社や外食産業など多くの日本企業が合弁による中国進出を目指したが、成功モデルは「1000店出店計画」を掲げ、中国の各都市で大量に大規模店を出店した『味千ラーメン』をおいて他にはない。初めて海外出店を図ったのは1994年、創業者の故郷・台湾だ。

「初めての海外進出は失敗に終わりました。失敗の原因は、現地オーナーに当社の考え方を理解してもらえなかったことです。当社は台湾の製麺会社と合弁会社をつくったのですが、現地法人が販売していたラーメンは、日本の「味千ラーメン」とは似て非なるものでした。麺はフニャフニャで、スープの味も薄かったんです」(『経営者通信』2011年4月号)

創業者である父の想いを継いだ2代目社長・重光克昭の回顧である。この苦い戦訓を経て、重光は「現地の好みは無視できないが、本来の味については妥協してはいけない」と決意。1995年には現地実業家と強固なパートナーシップを結び、香港に初出店。コア・コンピタンスである「豚骨スープ」の味については徹底的に管理しつつ、店づくりなどのソフト面やメニュー開発、マーケティングは現地パートナーに移譲。日本法人・中国法人がバランスを取った両頭体制で大量出店につなげていく。

大人数でワイワイ食べる中国食文化に合わせ、席は4人がけ以上がスタンダード。ステータスを重んじる国民性を慮り、空港や百貨店、ショッピングセンターに活気ある大型店をつくった。スープは熊本流をぶらさず、麺の茹で方もしっかり品質管理。一方、トッピングは徹底的にローカライズする。香港では丼に皮付きの有頭エビを乗せた海老ラーメンやトマト鶏ラーメン、タイではトムヤムラーメン、シンガポールではチリソースを加えたボルケーノラーメン。焼き鳥などのサイドメニューも充実させ、ファミリーニーズにも刺さるよう配慮した。かくして、「地方中小企業の海外進出成功モデル」として大躍進を果たした味千ラーメン。2010年の中国経済躍進と歩を合わせたブレイクから、現在の発展はいかに――?

2010年代前半は1000店舗体制を目指して驀進していた味千中国だが、現在の店舗ネットワークは約700店ほど。尖閣諸島問題に端を発する反日感情の高まり、そしてスープの内製を巡った報道などがあり、基盤はいまだ強固ながら、一時期の勢いが失われているのも確かだ。

失速の背景として指摘されるのが、中国消費者の成熟だ。日本のマンガからコンテンツ化された『深夜食堂』が人気を集め、金ピカラグジュアリーから渋い職人志向の食体験を求める動きがあれば、SNS映え、コロナ禍によるオンラインデリバリーの隆盛も大箱店舗の苦境に追い込んでいる。

本連載で取り上げてきた多くのラーメンと同じく、戦後に勃興した熊本『味千ラーメン』。日が昇るかのような高度経済成長期に浸透し、リープフロッグ型のモデルとして無二の存在感を発揮してきた。成熟ステージに向かう中国、そしてアジア圏で、北極星をどうやって見出していくのか――。今こそ、火の国で培われた創意に期待したい。

佐々木正孝

ラーメンエディター/有限会社キッズファクトリー代表

ラーメン、フードに関わる幅広いコンテンツを制作。『石神秀幸ラーメンSELECTION』(双葉社)、『業界最高権威 TRY認定 ラーメン大賞』(講談社)、『ラーメン最強うんちく 石神秀幸』(晋遊舎)など多くのラーメン本を編集。執筆では『中華そばNEO:進化する醤油ラーメンの表現と技術』(柴田書店)等に参画。

2010年―熊本から巨龍・中国を飲み込む! 味千ラーメンの軌跡 (msn.com)