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2013-08-30 18:34:00
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  • DAVID MARCELIS

 

[image] David Marcelis/The Wall Street Journal

パン職人のドミニク・アンラク氏

 【パリ】パリ16区に店を持つパン職人、ドミニク・アンラク氏は毎日、約1500個ものバゲット(棒状で細めのフランスパン)を焼くが、その多くは自分で食べたいとは思わない仕上がりだ。

 客の大半は棚に並べられたバゲットを眺めると、焼き時間が最も短くて最も白いものを選んでいくという。そのため店で売るバゲットの90%は、完全に焼き上がる前にオーブンから取り出すそうだ。

 アンラク氏は「自分で食べるためなら、あと2、3分長く焼くけどね。でもこれは商品だから、客の好みに合わせるしかない」と話す。

 

 

半焼けのバゲットを探すには

 バゲットはフランス料理を象徴する食べ物の1つ。それが今、文化的危機にさらされている。独特な形とパリパリと硬い外皮で有名なバゲットが、パン生地を食べさせられているのではないかと錯覚しそうな生焼けパンになろうとしているのだ。

 パリのパン屋についてのブログ「Painrisien(パンリジアン)」を立ち上げたレミ・エルン氏によると、評価をした230店の80%では「顧客を満足させる」ために、ほとんどのバゲットを完全に焼き上げていないという。

 ただ、客が好む理由もたくさんあり、それは生焼けの半端なものではないようだ。例えば、フリーランス・リポーターのカミーユ・オジェ氏(30)にとって、十分に焼き上がったバゲットを食べるのは苦痛だ。「そのままかじって食べるには硬いし、歯茎や口蓋(こうがい)を痛める」ということだ。その点、焼き時間が短めのバゲットなら「歯が欠ける心配もない」そうだ。

 アンラク氏の店の常連というピュラ・ガルシアさんによると、十分に焼けたバゲットはすぐに風味が落ちるという。「焼き上がってから1時間以内に食べないと、1日たった古パンみたいな味になってしまう」とその欠点を指摘した。また、別の客の中には、家に持ち帰って暖め直すと味が良くなるという理由で、完全に焼き上がっていない「白いバゲット」を求める者も多い。

 細長いパンを見ればフランスを連想してしまうほど、バゲットとフランスは切り離せない関係だ。そのフランスでバゲットに対する国民の好みが変化している様子に憤慨する向きもある。

 

David Marcelis/The Wall Street Journal

フランスで市民権を得つつある半焼けバゲット(左)

 フランス人作家でパン愛好家でもあるジャン=フィリップ・ド・トナック氏は「硬さはフランスパンのトレードマーク。十分に焼き上がっていなければいけない」と主張する。

 米コーネル大学の歴史学教授でフランスパンに関する著書もあるスティーブン・カプラン氏は、バゲットの特徴的な歯ごたえと風味について、製パン過程の最終段階に起こるメラード効果という化学反応によって生み出されているという。この反応なしでは、バゲットは味がなくて、直観とは逆にかみづらい食べ物となってしまう。

 徐々に違う食べ物に変化していくバゲットの姿を目の当たりして、「フランスの偉大な国家遺産の1つが失われていく」とカプラン氏は嘆く。

 パン職人らによると、正しい時間で焼くことで、パンの内側の柔らかい部分(身)と外皮の間で風味の交流が生じるという。つまり、パリパリとしてカラメル化した外皮が柔らかくふわふわしたパンの身を包み込み、バゲット独特の歯ごたえと風味が絶妙なバランスで生まれるというわけだ。

 フランスでは1950年代からパンの消費が減少しているが、それでも生活必需品であることには変わりない。朝昼晩の食事のほとんどでパンを食べるフランス人も多く、ほとんどナイフとフォークの延長部分としてフランスの食卓に欠かせない存在と見なされている。フランスの生活環境調査研究センター(Crédoc)によると、フランス人の98%が毎日パンを食べているという。

 そして、パンの中でも特に人気のあるのがバゲット。パンの研究と促進をしているフランスの国立パン研究所によると、パンの総消費量の4分の3を占めているという。

 このような名誉な地位にあり、フランスの風景に溶け込んでいるバゲットだが、実は誕生してから1世紀もたっていない。

 現在のようなバゲットが作られるようになったのは1920年代。パン職人が午後10時から午前4時まで働くことを禁じた、当時の保護的な労働法の副産物と言える。この時間帯に仕事ができないと、それまで一般的だった丸型のパンを朝食時までに焼き上げることは不可能だ。そこで新たに考案したのが、製造時間を短縮できる細長いパンだった。フランス語で小さな棒を意味するバゲットは朝食に不可欠なものとして、フランス全土に急速に浸透していった。

 フランスの法律では、バゲットの材料は基本的には小麦粉と水、塩、イーストだけと定められているが、焼き時間については全く触れられていない。

 気候や湿度といった要素にも影響されるが、パン職人の間では、典型的なバゲットの焼き時間としては20~25分が適当とされている。パリにある多くのパン屋で見かける色白でぐったりしたバゲットについて、カプラン氏はおそらく17分強しか焼かれていないのではないかとみている。

 アンラク氏の店がある16区は、官庁街であるとともに住人の大半が富裕層で、しかも美術館や19世紀の建物、印象的な街並みでも有名な地区だ。同氏はあと数分かければ理想的な焼き上がりになると思っても、そんな場所に住む客に失礼なことは言えないそうで、「このパン屋に来て忙しそうにパンを買っていく客に、説教をする時間なんてないしね」とあきらめている。

 ただ、頑固なパン屋もいる。

 

David Marcelis/The Wall Street Journal

 細くて外皮が非常に硬いバゲットを焼くことで有名なパリのパン職人、フレデリック・ピシャール氏もその1人。「少なくとも、フランスではワインの味わい方なら誰でも知っているのに、パンの味わい方について教えてもらうことはない」とこぼす。それで顧客に対して定期的に仕事場を公開し、パンの製造過程や味わい方を教えているそうだ。まずバゲットを縦に切って、パンの身の香りを楽しむ。切ったバゲットからは、木の実やレーズン、ドライ・アプリコットなどの香りがかすかに漂ってくることも多い。次に手触りを確かめてから、食べごろの大きさにちぎる。そして、ゆっくりとかんでゆく。これがバゲットの正しい味わい方だ。

 また、パリの南の位置する小さな町でパン屋を営むフランク・ドビュー氏は、可能な限り店に居て、穏やかに褐色のバゲットを奨めているという。焼き方の足りないパンを製造して客の要望に応えようする同業者については、勘違いしていると批判的であり、「客は最高の品を味わったことがないだけ。だから、客の味覚を鍛えるのがパン職人の役目だ」と語った。