インフォメーション

2017-08-27 10:15:00

今回は、前回に引き続き、「マ-ケット・リ-ダ-戦略」について説明しよう。

 

個性化戦略(14

 

7.マクドナルドの躍進の原動力

 1968年には、1,000店目が第1号店の近くにオ-プンさせたが、1990年代の人気商品の1つである「ビッグ・マック」が登場し、40億個目のハンバ-ガ-を販売し、1969年には売上高4億5100万ドル、店舗数は1,298店に達した。

また、フランチャイズ不動産会社を設立し、リ-ス・システムを採用して急速にフランチャイズ店を開発した。そしてセントラル・スタンダ-ド・ライフ社を設立し、機関投資家を募った。

 これら、「マクドナルド」の躍進は、創業者のレイ・クロックがリ-ダ-シップを発揮して事業展開をしたが、その陰には財務の専門家ハリ-・ジュ-ンの力と、もう1人レイ・クロックの片腕となったフレッド・タ-ナ-とのコンビネ-ションが事業の拡大に大きく貢献した。

 

8.マクドナルドの権利の取得

 1960年代の最大の出来事は、1961年に270万ドルという巨額なお金を投じて、「マクドナルド」に関するすべての権利を買い取り、今日の「マクドナルド・エンパイア」を築く第1歩を踏み出したことである。この時に、巨額な資金が調達できなかったら、いまの「マクドナルド」の姿はあり得ず、この不屈の精神こそ「マクドナルド」のバイタリティなのである。

 

9.海外進出

 1970年代に入り、店舗デザインのロ-カリティの導入、ブレックファ-スト・メニュ-の開発といったように、次々とイノベ-ションを行ったが、最大の「経営戦略」は「海外進出戦略」であり、カナダ、オランダ、ドイツ、日本へと続々進出していった。

 

10.日本への進出

 わが国の「マクドナルド」の第1号店は、1971年(昭和46年)7月20日に東京・銀座にオ-プンした。「マクドナルド」の日本進出は他のチェ-ンに先駆けて、ハンバ-ガ-のファ-ストフ-ドというシステムを事業として可能性があることを立証した。

 

11.売上高がトップへ

 創業17年目の1972年に売上高のトップに立ち、いまもその地位を維持するばかりでなく、確固たるものにしていて、誰もその牙城は崩せないでいる。そして、1970年代のキャンペ-ンのなかでは、1971年に始まった「今日は一休みしてもよいはず(You deserve break today)」キャンペ-ンをヒットさせた。

また、公共サ-ビス活動、大学のキャンパス、動物園、病院などへの出店、ダウンタウンへの出店、クロック財団を設立し、糖尿病、関節炎などの研究への資金援助などがあり、1972年には新商品の「クォ-タ-・パウンダ-」を誕生させた。

 

12.ユニ-クな店舗の開発

 1980年代は、店舗デザインも一歩前進して、ミシシッピ-の外輪船、ハリウッド映画を模したもの、スポ-ツをテ-マにしたものといったように、ユニ-クな店舗が続々開発されると同時に、子どもの部屋とかドナルド・ランドの併設といったようにお子様の人気を一層獲得する方策がとられた。

 ドライブ・スル-・システムの採用、あらゆる立地への出店、小型店の開発、ハンバ-ガ-・パテを両面から素早く焼く新型グリドル(クラムシェル)の導入といった新しい戦略が続々打ち出された。

 

13.新しい時代に

 1982年に「バ-ガ-・キング」が、徹底したチャレンジ広告によって、「マクドナルド」の快進撃は止まったかに見えたが、新商品ではチキン・ナゲット、マックDLT、ブレックファ-スト・メニュ-の改善、パック・サラダの導入により、依然として快進撃を続けている。

 しかし、1984年1月14日に創業者のレイ・クロックは、カリフォルニア州サンディゴのスクリップス診療所で81歳の生涯を閉じた。アメリカのフ-ドサ-ビス産業、いや全世界のフ-ドサービス産業の一時代は彼の死とともに終わり、彼の死とともに新しい時代が始まったといえる。

 

14.マクドナルドのリ-ダ-とは

 「マクドナルド」は、マ-ケット・リ-ダ-として、「QSC」の店舗運営の原理原則と、「3S主義」の原理原則に立って、きわめてオ-ソドックスな「経営戦略」と、お客様の「ニ-ズ」を先取りした「マ-ケティング戦略」と、価格については「プライス・リ-ダ-」の位置を確保し、先制主義による店舗開発、画期的な新商品の導入、ユニークな販売促進、設備投資の集中化などといった総合力により、No.1の地位を維持している。