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古本屋日誌
今朝は曇り空で暑うも寒うものうてあんばいです。柏書房から「自衛隊イラク日報」が去年出ました。2005年から翌年にかけての非戦闘地域での自衛隊の任務記録です。
大量破壊兵器があるとの憶測でアメリカが始め、日本も追随した大義のない戦争でしたが、米軍を中心に5000人からの戦死者を出しました。自衛隊は敵と直接対峙する場には行かず、後方支援や連絡業務、復興作業に従事したわけですが、例えば命を張っている米軍の将校から軽侮される場面、映画の「パットン」みたいな状況があるのかと思いましたが、それは全くない。
ノブレスオブリージュなのか、哀れみなのか、よくわかりません。自衛隊の将校が米軍の士官に「訓練の銃声と戦闘の銃声は区別ができるものなんですか?」と尋ねる機会があって士官がいうには「そんなもん簡単やでー、戦闘の銃声はいろんな火器の発射音が入り混じっとんねん、お前もじきにわかるわ」
この本によるとアメリカの永住権を取って、さらに帰化するとなると申請から3年くらいは認められるまでにかかるのだが、現役兵として入隊してイラクで戦えばすぐに帰化できるとなったので、希望者がたくさん入隊してきていた。その中には希望叶うことなく戦死するものも多かった。
今朝は少し曇り空でその分日差しが柔らかで過ごしやすい。
東大寺大仏殿を拝観して回廊の東側から出て少し北側に歩くと横幅が10間、遥かに続く石段があって「猫段」と呼ばれています。
仄聞するところではこの石段でこけたら猫になってしまうとのことで、我々も頑張ってこけようと試みましたがなかなかうまくいきません。登りきったところには行基堂、俊乗堂、辛国社、鐘楼などがあります。行基は東大寺創建にも関わった功労者だし、俊乗は鎌倉の再建時の立役者です。辛国社は創建時、功績のあった渡来人を祀ったものという。
まああれですね、普通に考えたらこけたら3年後に死ぬとかならリアリティはある気がしますが、猫にはならんでしょう。「こま段」(高麗段)だったのだろう。功績のあった朝鮮人を祀る祠に至る階段ということでしょう。大阪城の東側を流れていた小さな川も「猫間川」と言われてましたが、「高麗川」(こまがわ)でしょうなぁ。
朝から奈良国立博物館に出向き11時くらいに入場券売り場に並び、間も無く入れたが、館内で例の曜変天目茶碗の展示ブースのところで50分待ちの表示となっていて、実際には30分くらいで見ることができた。
この曜変天目茶碗は大正7年に藤田伝三郎の息子の平太郎が水戸徳川家の売立で54000円あまり、今でいえば2億5000万くらいで落としたものだという。茶碗にそんなに価値があるのかとあらためて驚かされる。しかし藤田が購入したものでは天目茶碗が最高額ではなく、御所丸黒刷毛茶碗が11万(今でいえば6億円くらい)ほどもしている。
図録の解説によると伝三郎は骨董屋が持ち込んだ品物は真贋にかかわらず全て購入した、ただし蔵を一番から四番まで分けていて、その骨董屋のいる前で「これは一番に入れておけ」とか「こっちは4番でええわ」と査定していたそうで伝三郎が自らの鑑識眼に自信を持っていた証拠だろう。
これですよね、コレクターの基本中の基本、なんでもいいから買いまくることです。本のコレクターの場合もいちいち読んでいるようでは集めきれません。
骨董屋も半分偽物かなと思いながらも持っていく場合があるわけですから、不安なわけです。それでもこうてくれたわけですから、藤田に恩義を感じます、今回は大目に見てくれたんだから次は損はさせられないと思ってしまいます。
藤田美術館は世界恐慌の煽りで会社の経営が悪化し昭和12年までに3回の売り立てを行いそれなりの名品を売却して合計750万円もの売り上げとなったとある。なかなか商売としても大したもんだなあ。
藤田美術館は現在休館中で3年後の春に新館をオープンさせるというのだが、その建設資金にアメリカのオークションに掛け軸など30点ばかりを出品して合わせて300億円ほどになったと報じられている。美術館が資金獲得のために所蔵品を処分することはしばしば行われることで、不思議はないのだが、今回も立派な収益を上げたわけで誠に喜ばしい。
大阪府や堺市が進めていた百舌鳥古市古墳群の世界遺産登録が実現するという。
しかしこれらの古墳は皇室タブーののために発掘はおろか内部への立ち入りすら禁止されていてバカバカしい。単なる小山を誰がありがたがって見に行くというのか、理解に苦しむ。
芦辺拓が「殺人喜劇のモダンシティ」を書いて大大阪時代、満州国の墳墓を発掘したら古代の天皇に直接繋がる墓碑などが出土してしまった。この事実を公表されてしまったら、大日本帝国の大元帥の出自が大陸にあることが明らかとなり、体面に関わるとあって、特高警察が暗躍して、発掘調査隊の団長を殺害してしまうはなしだった。
また中井正広の「仁徳陵」は徳川時代から明治にかけて揺れ動く陵墓利用のあり方を詳しく描いている。徳川時代には墳丘への立ち入りは問題なく特に花見のシーズンは賑わっているとか、墳丘上に茶屋があってもてなしをしていたこと、堀は釣り堀になっていたし、農業用水として活用していたことも書いてある。もちろんボストン美術館にある仁徳陵出土の遺物の話もあって、考えてみれば、これは植民地主義のいたらしむるところで、エジプトが大英博物館に返還を求めたように日本もアメリカと返還交渉をするべきではないかとも思える。
しかし徳川時代の「河内名所図会」には古市の名物として「土器、かわらけ」が絵入りで取り上げてあって、地元の人が古墳から副葬品を持ち出して路肩に葦簀がけをして観光客相手に売っている。明治初期に欧米人が仁徳陵に簡単に立ち入ることができ、発掘もできた上に特に問題視されることもなく副葬品を持ち帰ることができた背景はここにある。
実は百舌鳥や古市の古墳が残ったのはいくらでも土器、埴輪、かわらけ、石材が取り出せるからで、住民にとっては庭にいわば宝の山がドーンと聳えているようなもので、だからいつまでもそのままにしていたわけだ。
堺市は大仙公園に古墳の全景を見下ろせる展望台を税金を使って建てて、「観光客を呼び込める」と当て込んでいるが、全く税金の無駄でしかない。
猫好きの随筆家として面白い群ようこですが、猫の名前のつけ方が不思議で「コトラ1号、2号、3号」母猫は「トラちゃん」なんです。なんか冷めたところがある。ネコが4匹もいるのに、台所にはどーんとゴキブリホイホイが備え付けてあって、中にはGが鎮座ましましている。そのためコトラ1号が興味を示して手を突っ込んでミイラ取りがミイラになってしまう。
私の家には2匹の猫がいますがアブラ虫は出てきたらその都度なぶり殺しにして足の一部だけを残してぺろりと召し上がってしまいます。ネコが4匹もいるのになおかつ台所にゴキブリホイホイを備え付けなければならないのはよっぽど不潔な環境か、もしくは極度の潔癖症かなんでしょう。
群ようこはかなり年配だろうに母親と暮らしていて、独身なのかなと思うのだが、「自分の子供のときもそうなのだが、親はどうしても子供に構いすぎてしまう」と放任主義のトラちゃんと比べているから出産の経験はあるのか、ということは離婚したのかな。
群の自伝小説「母のこと」を読んで、ある程度謎が解けました。群の父親は売れない画家で、家には金も入れずに遊びまわって嫁に手をあげるというとんでもない男で、それでも母親は我慢してようやく43の時に離婚した。それから家計は楽になり、群も売れるようになったのだが、母親が以前の反動からか買い物依存症となり、月に800万とか900万とか使ってしまう。マンションもこうてくれとねだられて、仕方なく保険を解約などして頭金を作り払ってあげる。
というわけで、群の家はかなり荒れていたんだろう、二人とも精神的にも余裕がなく、片付ける余裕も失ってゴミが散乱していたのではないか?だからゴキブリホイホイにはGがいっぱいになっていて、1号が空腹のあまり手を出そうとして捕まってしまった。残されたコトラ2号と3号は1号がGに襲われていると勘違いして健気にも救い出そうとゴキブリホイホイに噛みついたということなのだろうなあ。