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古本屋日誌

2021-04-30 18:36:00

京都は2年連続のゴールデンウィーク自粛で沈滞ムードが漂っている。

観光都市であるために客が来ないと収入がなくなってしまうためだ。

京都の古本屋はというと、またしても勧業館の古本市が中止になり、なんとなく先行きの不透明感や不安感が蔓延している。実は買取の依頼が減少しているのが不気味なのだ。

いつもならこの時期、引越しに伴って本を処分したいと古本屋にはたくさんの買取依頼が舞い込んでくる。

ところが今年はそれが少ないと聞いた。

そのため普段なら自分の店の得意なジャンルの本以外は適当に安い値段を付けて店頭に並べていたものが、そもそも本が入ってこないものだから、少ない本で利益を出そうとする。

つまり店頭の本も、サイトの価格を勉強して、要するにAmazonの価格に合わせてしまう。当然本はなかなか売れなくなり、ますます沈滞感が漂っている。

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2021-04-29 16:15:00

食満南北が昭和19年に出した「大阪の鴈治郎」に初めて歌舞伎の芝居を見た医者のコメントが載っている。

演目は近江源氏。

「小四郎というあのいたいけな子供が肚を切っているのに、何故あの大勢の人の中から1人くらいは外科医を呼びに行くものがなかったのが如何にも乱暴だ」

南北は虚構をわかっていない野暮天だとこき下ろしてるのだがごく普通に考えてこれは真っ当な感想だよなあ。

幼い子供を主君の身代わりにして腹を切らせる、本人は粛々として応じて、周りは「よう出来たお子たちや‼️」とばかりに感動の涙を流すという筋立ては訳の分からない身分社会であるからリアリティをもつわけで、われわれにはバカバカしいとしか思えない。



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2021-04-28 13:36:00

厚切りジェイソンが日本語をネタにあれこれ漫談をやっていたよなあ。

その中に、例の「悪いことをするときは手を染めるなのに、やめるときはなぜ足を洗うて言うのだ‼️WHY‼️Japanese people⁉️」がある。

確かに悪事を始める時に「手を染める」と言うけれど、別にそれは悪いことに限定しているわけではなく、何かを始める、手をつけるときはよし悪しに関係なく「手を染める」を使う。

それにそもそも「手を染める」ではない。

「手を初める」だ。

「そめる」は「染色する」なんかではなく「初める」なんだよなあ。

「食い初め」とか「なれ初め」とか「出初め式」「まだ上げ初めし前髪の林檎の下にありしとき」とかいくらでもあるだろう。

それはさておきこの「手を初める」は昔からあった表現ではなく昭和の初めくらいが起源で私の見たところでは昭和19年に刊行の食満南北の「大阪の鴈治郎」には使用されている。

それに対して「足を洗う」はずいぶん昔からある表現だ。

新町遊郭の大門の内側には年季が明けたり、うけだされたりした遊女がここを去る際に必ず足を洗った井戸があった。一つの通過儀礼として見るべきものだろうし、すでに徳川時代には「足を洗う」が日常に定着していたことがわかる。

その伝統が受け継がれて、西区の小学生は登校とともに毎朝トイレの横にある長〜い洗面台に、裸足で上がり込んで「今日から真人間になります‼️‼️」と絶叫すると言われているとか。
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2021-04-27 20:58:00

私の住んでいる門真市の有名人はやはり俵万智だろう。

彼女が門真市の生まれであることは有名だよなあ。

そうでもないか。

ともかく「サラダ記念日」で衝撃的なデビューを飾り江湖に迎えられ写真集まで出しているわけだよ。

「この味がいいねと君が言ったから7月6日はサラダ記念日」

女が自宅に彼氏を招いて手料理を振る舞おうとしたが、女は極端に不器用で料理などできやしない。

苦肉の策で野菜をふんだんに使ったサラダを出したところ、普通なら男が突っ込んでくるところなのに「この味がいいね‼️」と褒めてくれて女は嬉しくてたまらないわけだよ。

男が本心から喜んでいるとは思えないが、大人だから女の顔色を見て気を遣ったわけだ。

この女はもちろん俵万智自身で、エッセイの中で小学生の時の家庭科の授業で目玉焼きを作らされたが、そもそもきちんと玉子を割ることが出来ず、ぐしゃっと握り潰してしまいギャラリーの爆笑を誘い、泣き出してしまったと書いている。

門真市では料理の下手な俵万智を称え、少しでも彼女の才能に近づくために、市内の小学校全てで目玉焼きはまず玉子を握りつぶしてから作るように強く指導していると言われる。

また少なからぬ数の小学校では子どもに泣く真似をするように指導したのち、教師が「そういうときはミックスベジタブルを混ぜてスクランブルエッグ、つまり玉子のなたねやな、それを作ったらいいのよ」と唱えることが決まっているそうである。


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2021-04-26 21:54:00

山本周五郎のデビュー作は「須磨寺付近」なんだが、どの短編集に入っているのか分からずまごまごしていた。

ネットで調べるとたちどころに新潮文庫の「花杖記」だとわかり早速読んでみた。

「豹」同様、女の暴力性をテーマにした作品で面白かった。

夫が米国主張中の康子は弟と須磨寺付近の自宅で二人暮らしだったが、馴染みの清三を招いて話し相手になってもらう。

美貌の康子にもともと清三は気があった。

康子の方も平気で清三を家に住まわせ「いつまでいらっしゃれますの❓」などと気を持たせる。

いくらなんでも夫の不在で閨の無聊をかこつ人妻とはいえ、いきなり家に若い年下の男を囲うような展開は無理がある。

でも周五郎としては自然とご近所の若い男と親しくなる展開は必要だとわかってはいたが、そんなことを書きたいわけではなかったから目をつぶったものだろう。

その後も康子は色目を使い二人っきりで思わせぶりな言葉を呟く。

「私たちの結婚がこうふくか幸福でないかわかりますか❓」
まるで不幸な私を救ってくれと言わんばかりだ。

そのくせ清三が康子の手を取ろうとすると「我慢なさいませ」と逃げてしまう。

ある時など康子はわざわざ大阪の清三の職場に電話をかけてきて「夕方、松竹座で待ってます」と自分の席番号まで教えて呼びつける。

清三がふらふら行ってみたら康子は横に座った紳士とあれこれ話をしている。あとでこの男は職場の上司だとわかるのだが、親しげに女が言葉を交わすのを目の当たりにして男は平静ではいられない。

これらが全てある盛り上がりに向けての女の作戦であることがやがて明らかになる。

この程度のことは男であれ女であれ仕組むだろうけどやられた方はたまらないよなあ。



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