Welcome
古本屋日誌
日本一の古本屋であるブックオフにはよく行く。
品揃えは極めていい。
店内には寺田心の「あるじゃん❗️❗️」のCMが流れ、品揃えの素晴らしさを誇っている。
確か以前、寺田心は
「ブックオフなのに、本、あるじゃん❗️」と叫んでいた。ろくな本を置いてないのが普通のブックオフのくせにマシだなということだ。
それがいつのまにか自信を深めているのだ。
本も著者別、出版社別に分類してあって探しやすい。
通路も広く、店内は明るい。
何よりも繁華街に店があって、こうた本をすぐ近くの喫茶店でゆっくり読めるのが1番の魅力だ。
毎月29日は、店舗によっては250円お買い上げごとに50円の金券を渡すサービスがある。
そこで28日に、心斎橋店に出向いて補充の様子を見てみた。
文庫本コーナーの脇に4つの白い薄透明のパレットが積み上げてある。
中には値付けの終わった文庫本が裏向けに並んでいる。
覗いてみるとちくま文庫、岩波文庫、中公文庫、講談社学術文庫だとわかる。
しかしきちんとは分類されておらず、各社文庫が雑然と積み上げてあるのだ。
これらを明日のセールに備えて棚に補充するとなると、まずは各社別に本を揃えないといけない。
さらに店内の棚は全て満杯で、新たに本を差し込むスペースはないから、それを作らないといけない。
そうなるとまず110円均一の棚に詰まっている、なかなか売れない本を処分して(つまり廃棄して)そこに今はそれなりの値段で販売している文庫を値下げして差し込まなければならない。そのためには値札の付け替えが要求される。
さて、これでようやく箱に入った本を入れられるのだが、実は各本棚の下には収納スペースがあって、ここに上下2段に本が詰めてあるのだ。
だから箱に入っているのを棚に詰めれば出来上がりとはならない。
棚の下のストックもある程度出しつつ、箱の中の本もダブらないように確認しながらバランスよく出さなければならないのだ。
そんなひちめんどくさい作業を客対応もしながら、限られた時間でできるだろうか。
森茉莉は1987年に亡くなっているから、もうそれから40年くらい経っている。
しかしいまだに文庫本が筑摩書房や新潮社、河出書房などから入手できる。
これは稀有なことだよな。
亡くなって数年もすれば単行本も含めて新刊書店で入手できなくなるのが大半の作家の運命だからだ。
晩年の「ドッキリチャンネル」は「週刊新潮」連載のテレビ評だから、ナンシー関がやっていたのと似ている。
ナンシー関は、もちろん天才で、寸鉄人を刺すようなイメージがあった。
つまり贅言を要せず、溢れる言葉を削りに削って本質をズバリ言い当てる剣士だったわけだ。
これはこれで心打たれるが、贅言なし、話が膨らむこともなかったから、年月が経ってしまうと、書いてある内容にリアリティが感じられなくなって、衝撃度が落ちてしまう傾向がある。
ところが森茉莉は、その正反対で話がいろんな方向に飛ぶ。
彼女の感じたことを正確に伝えようと、故事成語や漢籍、諺、エピソード、そして卓抜な比喩を駆使する。
本筋の芸人批評はそれとして、この追加されている枝葉の面白さが際立つので、読む方はついつい釣り込まれて読まされてしまうのだ。
「或る日犀星(室生犀星のこと)から、亡くなった夫人の句集が送られて来た。たいへんにいい句があった。次に犀星の家に行ったとき、礼を言い、そのことを言うと、傍にいた朝子が「随筆集もあるんですよ」と言った。
すると犀星は、小さな手焙りに両手をかざしたまま固まってしまった。
こちこちになってしまって、自分でもどうにもならないらしい。
真鍮の手焙りと一緒に全身が固まってしまって、まるで手焙りに掌をかざしている、犀星の銅像のようである。
(中略)
二分くらいも経っただろうか、ようよう犀星の固まりは解けて、もとの生きている犀星に還った。
唇元をへの字にしたまま動かなくなった犀星の顔、動かぬ掌、体、それは彫像と化した犀星であった。
ふと、固まりか解けて、表情が還って来た時の、ホッとした気持は、忘れられない。
犀星は夫人の随筆集を気に入っていなかった。それを私に言って貰いたくなかったのだ。その二分程の時間の長かったこと、今思い出しても自分の体が固まって来そうになるほどである。」
おもしろいよね。
このところ急に暑くなった。
ただでさえ寝苦しいうえに、朝5時になるとネコさまが早くもお起き遊ばしめして
耳元で
「ニャーにゃーニャー」お鳴きあそばされる。
つまりは外に行かんとのご所望なのだ。
仕方なく無理に、起き上がって外へお出し差し上げると、そのあとなかなか寝付けない。
結局6時前に起き上がり、ねこ様がたのお食事を整えて差し上げて、お水も新しいものにする。
お手洗いの周りに撒き散らされておられるところの紙の砂の玉も掃き清めさせて戴きます。
ふと気づくとオスネコのカイ様が居間に戻ってこられていて、しきりにえずいていらっしゃる。
外で草を召し上がって、飲み込んだ毛玉の処理をされようとされているわけで、早速古新聞を周りに敷き詰めて差し上げる。
ねこ様としても心置きなく吐き散らかせるというものだろう。
メスネコのポコ様は外で遊ぶのにも所在ないご様子で、家のなかに戻られ、わたしの周りで
「ニャーにゃー」おっしゃる。
早速寝転んで差し上げますと、大喜びでお腹の上に乗ってこられ、全力で顔を擦り付けておられる。
さらに腕を出せ❗️との御所望で右手をかんばせあたりに近づけると何回も、何回も甘噛みされる。
このようにねこ様方の御威光で、われわれは生きていけるのである。
インベカヲリが人々舎から『私の顔は誰も知らない』を出した。
インベは写真家なんだが、例の、新幹線で無差別殺人を企んだ犯人を取材した『家族不適応殺』で名を上げた。
今回はインベのモデル募集に応募してきた人たちへのインタビューを集めたものだ。
テーマとしては人は自分を覆い隠して擬態して生きているから、ストレスもかかってくるのではないのかという話だ。
たしかに仕事で求められる役柄を演じるように求められるしそれができないと毛嫌いされてクビになったり、生きにくさを感じたりもするだろう。
擬態するのに疲れてものを買わなくなったという女の話がある。
「周りの可愛い女の子に合わせるのが疲れたっていうのもあるんです。可愛い女の子の真似をするのに疲れた。
隣の人がめちゃくちゃキレイなひとでも、私は隣で納豆ご飯を食べようと思った。私はそれでいいんです」
インベのコメントがおもしろい。
「きっと多くの人にとっては、擬態するほうがラクなのだろう。他人が共通して持っているイメージを身にまとえば、何者かになれる。美人の記号、金持ちの記号、幸福の記号ー記号を所有すれば、他者イメージも、自己イメージもコントロールできる。
でもそれが、必ずしも楽しいとは限らないということだ」
断定しないところがいいな。
そうなんだよ、イメージを身につけた方が楽なんだよなあ。でもたまにめんどくさくなるわけだ。考えたら贅沢な話だよなあ。
その断定しないインベが珍しく口を極めて批判している話がある。
それは学校だ。
小学校以来の教育は、生徒が周りに合わせて常識的な振る舞えるようにするものだ。
インベ自身は子供時代、体育の時間は苦手でからだも固くて屈伸運動も満足に出来ず、通知簿も体育は2で劣等感ばかりだった。
「私はずっと、自分が運動はできないと思い込んでいたけれど、大人になると不思議なもので、たいていのことはそれなりにできてしまう。(中略)
そうなってくると、あの体育の授業は何だったんだろうと思う。私が「運動のできない人間」だと思い込まされていた、あの膨大な時間は何だったんだろうと思う。(中略)
私は、劣った人間に振り分けられ、酷く劣等感を植え付けられ、覇気のない子どもとして萎縮しながら過ごしていた。
学校は、学校のルールでしか評価されない場所で、そこに当てはまらない人間は抹殺されていく場所だと今でも思う。」
インベは体育を含め、学校教育のルールの押し付けを批判する。
でも教育はそもそも強制だからな。
たしかにインベのような才能のある人間にはおせっかいで、理不尽でしかないだろう。
でもたいていの人間は強制されることできちんとやっていけるのだと思うけどね。
今日から平安神宮の応天門の南側で古本市、さっそく行ってみた。
平安神宮では先日廻廊を使ってヨガ教室が開かれたという。
わけのわからないコロナ騒ぎでお宮さんを訪れる人も減っているだろうし、またここは結婚式場としても有名だったのだが、今般の騒ぎでその需要も減っているに違いない。
あれやこれやで収入が落ちているので、いろんな催し物に頼ろうとするのだろう。
古本市は、去年に続いて2回目なんだが、規模は大幅に縮小、参加店も少ないし、展示している本も大したことなし。
石川、シルヴァン、汎、星空、不死鳥などで、話によれば大阪の古本屋の主催だという。
また岡山の不死鳥ブックスは今回は本ではなくCD、レコードの出品だ。
これでは集客も見込めないと思ったし、最後の二日間、全国から寄付を募って100円均一をやるのも仕方ないように思う。
ただ道を挟んで岡崎公園では大規模な蚤の市が開催中だ。
古道具、古着、雑貨、椅子、テーブル、オブジェなどいろんな露店が所狭しと並んでいる。
ついでに古本もこうてみよか〜てなお客さんもいるに違いない。