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古本屋日誌
昨日から伊丹の昆陽にあるイズミヤで小規模な古本市をやっている。
伊丹は阪大のある石橋にも近いし、梅田や三ノ宮への通勤圏だから、古くから住宅街があって、古本屋は商売がやりやすいところだ。
おりしも7月29.30の2日にわたって阪急伊丹駅至近の伊丹小学校で「ふれあい夏祭り」が開催されている。
猛暑最中だが、屋台が並んで、浴衣姿のたくさんの人出で、都会ではあるのだが、適度に人間関係も保たれている田舎の風情も残していることがわかる。
スーパーや本屋、百貨店での古本市は暑くなく快適だし、同じ階にサテンやくつろぐスペースもあって、老後の暇つぶしにはもってこいだ。
また、この古本市にはたくさんのレコードが並んでいて、「試聴もできます」とのことなのだ。
確かにレコードは試しに聴いてみたくなるものだから、売り上げにもつながるのだろう。
もちろん買う方からすれば魅力的な娯楽なひとつと考えられる。
本も古本市で朗読してもらいたいものだ。
大阪は地方新聞がない土地だ。
京都には『京都新聞』があって市内で36万部を発行して、そのシェアは依然として50%近い。神戸には『神戸新聞』、このシェアも相当なものだ。
名古屋には言わずと知れた『中京新聞』、東京にも『東京新聞』がある。
沖縄など『琉球新報』などのシェアは9割近くに及んでいる。
もともと、『朝日新聞』『毎日新聞』『産経新聞』などは大阪で発刊されたものだ。しかし、今は全国紙となっていて、それが大阪の新聞だと言えるわけもない。
唯一残っていた夕刊紙の大阪日日新聞も休刊となる。
地方新聞にはその地域だけの情報が掲載されている。
例えば亡くなった人の名前、住所、年齢を一覧で掲載している。
これで「親戚のいとこ、やっぱり死によったんやな」ガセでないと確認するのだ。
大阪の場合は、大都会なのでそういう情報はそもそも求められない。
同時に歴史や伝統も重んじられない。
つまりアメリカと同じだ。
今現在だけに目を向け、歴史的なものは無視する。スクラップアンドビルドを心がけて、著しく未来志向だ。
しかし、それは最近の傾向なのだ。
徳川時代は、河内名所図会を眺めると、名産品として土器や遺物があがっていて、小屋掛けして、古墳から掘り出してきたもの(土器、かわらけなど)を販売している絵がある。
また大仙陵古墳は内部に入れたし、墳丘にはたくさんのサクラが植えられ、花見シーズンはとりわけ多くの人で賑わった。もちろん茶店も設けてあった。
だから京都同様に、歴史は金になることはよくわかっていたのだ。
それが明治になって天皇制が再編されて、おかしな方向にタブー化が進み、古墳の発掘も調査も内部へ立ち入ることも許されなくなり、大阪は一転、観光資源を失うことになってしまった。
さらに、船場の旧市街は、大東亜戦争の空襲で焼け野原となってしまったし、四天王寺や大阪城も戦禍を受けてしまった。ことここに至るや観光で身を立てることは不可能となった。
北海道新聞の酒井聡平が『硫黄島上陸』を講談社から出した。
硫黄島の戦いで戦死した二万を超える帝国陸海軍の将兵の遺骨はその半分が未だに帰還していないという。
酒井はつてを頼って、遺骨の収集作業に従事したのだが、2週間の間、懸命に作業したにもかかわらず、少しの遺骨しか回収出来なかった。
これは遺骨の収集に国が前向きではなく、戦後70年の間に風化が進んだせいだと考えられるというのだ。
酒井によれば、1968年の小笠原諸島返還の際、日米間の密約で有事の際に核兵器を持ち込めるようになっていたという。
そしてその前あたりまで硫黄島には核兵器が貯蔵されていたのだそうだ。
核の貯蔵施設を作るために、地形の改変、洞窟の封鎖などが行われたのも、遺骨の収集を困難にした原因だろうという。
自民党政権は、つまりはアメリカ様の犬なので、硫黄島の遺骨採集ですら、忖度して積極的に行わなかった。
ところが民主党政権に変わると、菅直人はアメリカ側の資料も探して、埋葬場所を特定化するように指示を出して、その結果800以上の遺骨の収集に成功したのだという。
なるほど、これまで明らかになっていなかった様々な事実を明らかにした労作だよな。
わが国がアメリカ相手に戦争をしたことは、その当時からしたら、ごく当たり前のことでしかない。
それなのに、今の価値観を機械的に当てはめてアメリカに忖度するなど、犬の本領発揮だなあ。
1980年代初頭に蓮實重彦が草野進というペンネームで「プロ野球批評宣言」を冬樹社から出した。
なんでもお茶の家元だとかいう触れ込みだったが、東大の先生がプロ野球にタッチするのは憚られたのかなあ。
蓮實の主張はプロ野球の醍醐味は家のテレビでプレーを見て、後追いのつまらない解説を聞くことではなく、球場に出向いて「あ❗️❗️」と息を呑むようなプレーを見ることにあるということだ。
だから彼女(一応、女という話になっている)は三塁打の魅力を縷々語っている。
ツーベースは少し条件が揃えば容易に成し遂げられるが、スリーベースは打球の着地点、守備のプレーヤーの位置や足の速さ、中継の選手の機敏さ、そして何よりも打者の足などさまざまな条件が満たされた時に初めて出現する類い稀な現象で、その魅力は球場に足を運ばないと味わえないというのだ。
確かに蓮實重彦の言うこともわかる。
神宮にせよ東京ドームにせよ狭過ぎて、こすっただけの外野フライが容易に本塁打になってしまう。
こんなバカな事はない。
球場が野球規則どおりに作ってあれば、スリーベースが生まれる確率も上がり、よりスリリングなプレーが展開されるような気もする。
しかし、そもそも、球場に来る人たちは、間違いなくどちらかのチームのファンで、球場では応援歌を歌ったり、ヤジや飛ばしたり、ビールを飲んだりしている。
プレーをきちんと見ているわけではない。
敵のチームのファインプレイなどを目にしたら一層イライラがつのるのだ。
こういうファンのあり方に、蓮實は異を唱えようとしているのだ。
騒いでないで、ちゃんとプレーヤーを楽しもうよという提言なのだが、そんなものはファンからしたら全く説得力はない。
それはさておき、この本は当初冬樹社から単行本ででたのだが、間もなく評判となり新潮文庫となった。(続く)
今日は京都、一乗寺のお客さんのところに出向いた。
このところ酷暑で京都市内は40度近いし、太陽光線は強烈な上に、アスファルトからの照り返しも大変なものでクラクラしてくる。
ところが三時を過ぎるとにわかに一天かき曇り、黒雲が瞬く間に全天を覆い尽くして、今度は叩きつけるような豪雨となり、1時間半にわたって続いた。
とりあえず出町柳のロッテリアでくつろいでから、三条に出て、地下のたこ焼き屋で、やらかい不思議なタコが入ってるやつを食べた。(8個で500円)
5時くらいには雨は上がって、再び出町柳に行ってみたら、
気温は10度以上、優に下がっていて、おまけに涼しい風が、濡れそぼった地表を吹き抜けていき、とてもさっきまでの酷暑の場所とは思えない。
東南アジアのモンスーン気候の地域(例えばタイ)なんかでは今は、ちょうど雨期で毎日激しいスコールに見舞われる。1時間くらい強烈な雨が降って降るのだが、そのあと涼しくなる事はない。
相変わらず蒸し蒸ししている上に、気温は高く、心地よさも感じられない。
それに比べて今日の京都は天国で、季節が3か月くらい進んだ夕べを思わせるものだ。
毎日、この現象が続いてくれるのなら、立派な観光資源がまたひとつ増えると思うのだがな。
40度の酷暑の中、観光を続けて客を疲弊させて、「さー、お待ちかねの、天地がひっくりかえるスコールタイムがやってきました。鴨川デルタにお出になられて、全身に天水をお浴びください❗️❗️」てなことができるだろうからな。