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萱島駅

うちの最寄り駅は京阪の萱島ですが、例の大きな楠のそびえる駅です。ここは新田の会所があったのだということと、寝屋川が駅の南側で元は二つに分けれていたが片方は埋め立てられて自転車置き場になっていることが知られています。今は川は2本ですが元は3本あったわけで、漢字の川のような地形だったわけです。

大阪では安威川は今もその形でモノレールからみることができます。また芥川賞の又吉直樹の出身の中学がこの近くで萱島駅高架下のうどん屋に本人が昔食べたと取材に来ていたことがあります。又吉の作品はもちろん面白くて映画化されたりいまは「スピリッツ」に漫画化されて連載されていたりと素晴らしいですが、それでも「又吉饅頭」とか「火花もち」とかが出るほどにはなってません。まあ大阪はそういうのは小説ではしない風土なんでしょうがやったらもうかるケースもあろうかと思うのですが。

青木書店からだいぶ前に出た「大阪平野のおいたち」(梶山彦太郎、市原実)に河内湖の水際がだんだん後退していった痕跡が少なくともも5本くらいは見て取れると明治18年測量の地図に示した図がありましたが、門真では古川が5本目の水際になっていました。萱島の近所は寝屋川なんですが形が駅のところで南向きから西向きに変わっているので、これも水際のあとかなあとおもっています。

萱島駅にもと開かれた新田は萱島流作新田というのだそうで寺前治一の「寝屋川史話100題」によるとしょっちゅう増水して作物が流されるからそういうネーミングになったと書いてありましたが、そういうものなのか、不思議です。まあ流されてもいいや、ということなのか、むしろざまあみろという悪意も感じられるのですが。  その後で富田寅夫さんの本を見たら「流作は川原で耕作するという意味だ」とあり、それじゃあ特に悪意はないのかと思い直しましました。実は確かに田んぼや畑をするぶんには洪水は

大問題ですが、例えばカンボジアのトンレサップ湖のように湖水の上に家を浮かべて魚を捕って生活しているなら、洪水は特段気にかける必要ないし、むしろ豊漁の前兆だろうとおもっていたんです。そういう水の民が萱島にもしいたなら、新田開発なんか苦々しいと思っていても不思議ではないなということなんです。

門真市と寝屋川市の境界になっているのが元の寝屋川で、今の寝屋川はかなり後で開削されたものです。この元の寝屋川は南側は自然堤防がしっかりあって高台になってますが、北側(現在の南水苑)は堤防らしきものはみあたりません。湿地帯だったのか、洪水の際に北側に溢れさせるためなのか

不思議です。

「まんだ」という北河内の雑誌の45号に木田のかこい堤防の記事があり寝屋川の北側から東側を回り木田の部落をぐるりと囲む周囲4キロもの輪中があったことを知りました。となればやはり寝屋川の北側は遊水池で、洪水時の安全弁だったようにおもいます。