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古本屋日誌
今週の『週刊現代』に「大阪ぎらい」と題して、大阪へのさまざまな世間の評価が語られている。
その中で井上章一がコメントを寄せていて、昭和10年代に出ていたという「奥の奥」という雑誌には当時の大阪弁は物腰柔らかな「日本語の中のフランス語」とでも表すべき上品な言葉である旨の記載があるという。
(フランス語が上品というのは意味不明だけどね。志賀直哉が敗戦後に日本語の使用をやめてフランス語を公用語にしたらいいと述べていたのは有名だ。文壇でのイメージなんだろうか)
俺も昭和28年に出た『今日の東京、なんでもわかるバイブル』という雑誌に徴兵検査では大阪弁は禁止されていた、柔らかな話し方が合わないからだとあったので、同じような話だなと感じたなあ。
ところがテレビ局が少ない予算でインパクトのある番組や作ろうと、大阪のテレビ局は素人を使った番組を製作し始めて、例えばいとし、こいしが司会を務めた「がっちり買いましょう」がそれだ。
そこでの素人の話し方が大阪弁だと捉えられたというわけだ。
また船場に住んでいた裕福な大阪人は芦屋に本宅を移し、大阪市内には河内や和泉からたくさんの労働者が入り込んだために、その話し方が大阪弁だと捉えられるようになった、ともいうのだ。
要するに、井上は下品な大衆の話し方が大阪弁のイメージに大きな影響を与えたといっているのだ。
確かにそれはあるだろうけれど、東京の連中が自分たちこそがナンバーワンなんだと誇示したいがために、地方差別をし続けていることが、最大の原因だと俺は思っている。
井上章一も以前、学校でも教えられている歴史区分に噛みついていたよなあ。
奈良時代、平安時代、鎌倉時代、江戸時代なんかは理解できる。政治の中心都市を冠しているからだ。
ところが古墳時代とは一体なんなのか?古墳で政治など行われていない。
本当は河内時代とでもいうべきなのに、大阪への根強い差別意識からこれを忌避したと井上はいうのだ。
さらに安土桃山時代にも噛みついて、桃山て何❓というわけだ。
どう考えても政治の中心は大阪だろう、それなのに差別意識丸出しで避けてしまったんだというわけだ。
井上章一先生もお偉くならはって、文化勲章とかねろてはるんちゃいまっしゃろか。お上に楯突くようなお話はようなさらしまへんな。
去年のノンフィクション作品では伊澤理江の『黒い海』が世評も高く、大宅賞も受賞している。(逆に『同和のドン』はつまらなかった。この程度の人生で本にしようという神経がよくわからない)
2008年に太平洋上で突然沈没して乗組員17人が死んだ船舶事故の話だ。
当時、洋上はないでおり、また錨を下ろして極めて安全な停泊状態であったのに、短時間で5800Mの深海に沈んでしまった。
当初事故原因は三角波によるものといわれていたが、そうではなく潜水艦が艦底に衝突したせいではないかともいわれているのだ。
その正否も興味あるところだが、気になったのはマスコミ関係者の取材態度だ。
俺の小さい頃、テレビのワイドショーで、飛行機事故の遺族の家まで「取材」と称して出向いて、インターホンを押して「今のお気持ちはいかがですか❓」などとインタビューしていたのは、子供ながら無神経だと感じた。
しかしそれはもう半世紀も前の話だ。
2008年の今日、いくらなんでもそんな話はないだろうと思っていた。
ところがこの本によれば、マスコミ関係者は、沈没した船を捜索中の僚船に電話をかけて、捜索状況を聞き出そうとした。電話回線は2本しかないのにもかかわらずだ。
また記者会見の予定を伝えているのに、その開催前に記者がやってきて「記者会見での情報以外のやつを教えてくれ」と食い下がるのだ。
こんなことをされたら、当事者は腹が立つだろうなあ。
大した記事も書けないのに、取材態度だけは横柄、その程度の人間がマスコミ関係者なんだろう、と改めて感じた。
SBクリエイティブから出た『ビジュアルでわかる日本』には子どものいる核家族で、年収1500万円以上の家庭についても可視化した図がある。
その割合が10%を超えているのは芦屋市だけ。
大阪では豊能町、中央区、天王寺区、阿倍野区が8%以上、京都は左京区が同じく8%、兵庫は東灘区が8%となっている。
年収1500というのは、この本によれば従業員が1000人以上の企業の部長クラスだという。大学の教師はそこまではいってないのではないかな。
したがって、このデータは大学関係や出版社、マスコミ関係ではなく、純粋に金持ちの分布を示している。(実は大阪の場合はこのほかに、中之島、高槻市の北部にも金持ちが分布していることが『日本のお金持ち研究』で明らかになっている)
それにしても芦屋市にせよ、豊能町にせよ古本屋はないな。
地価が高くて、場を取る物販、とりわけ利益率の低い古本屋など営業できるわけもないのだろう。
でも本が好きな人なら、手近にぶらっと行ける古本屋が欲しいと思うものではなかろうか。
だから俺が思うには芦屋、豊能には会員制の大きな古本屋がこっそり営業しているのではないか。
目立たないように、地下に広大な売り場がある。
バーカウンターが併設してあって、24時間いつでも会員は本を片手にグラスを傾けることができる。ひょっとしたらアスレチックジムとプールもあるのかも。
店内にはえべっさんが勧請してあって、商売繁盛のお祈りも合わせて行える。
本棚はというとまずルネサンス期の大部な動植物図鑑が目につく。
森鴎外の『青年』『雁』、夏目漱石の『こゝろ』『それから』、内田百閒の『冥土』の生原稿、紫式部直筆の『源氏物語』、北斎の『神奈川沖浪裏』の初刷、長谷川貞信代々の浮世絵、『浪花百景』の揃、藤田嗣治のノモンハンの絵、勝平得之や川瀬巴水、となかなかお目にかかれない逸品が並んでいると思うのだ。
週末には作家本人が出向いてきての朗読会とトークセッションがある。今週は佐々木譲で、来週は宇佐美りんとなっている。
でも、ここに居住してるのは、企業の経営者とか引退した会長とかなのかもしれないけど、単に金儲けのことしか頭にないような気もする。
昨日NHKのBSの『スポーツヒューマン』でタイガースの近本の特集があった。
彼は去年のタイガースの日本一に絶大な貢献があり、とりわけバファローズとの日本シリーズでは打率5割に迫る活躍でMVPに輝いた。
彼はプロ入り5年目なんだが、その全ての打席で考えたことや、スィングの後の反省点をメモしてスマホに保存しており、これとタブレットの打席画像を合わせて研究を怠らない。
また試合のある日も、朝の9時にはジムに現れて、ストレッチのメニューをこなし、そのあとはホテルに戻りトレーナーと筋肉の捩れの矯正などに1時間以上の時間をかけ、3時過ぎには球場のバッティング練習場に来て、バッティングピッチャーの球を打つ。
その際もスィングのたびに時間をとって、自分の考えたこととその結果を比べて次に活かそうとするという。
試合ではまず投手の球種を投球後に判断して、その後もコースなども見てとってスィングを変えるのだとのことだ。
しかし例えば150キロの球ならホームベースまで来るのに0.4秒だ。
人間が目標を見て、脳で判断して身体が動くまでには、どんなに速くても0.3秒かかるのは昔からよく知られている。
だから近本のいうような「球種も球を見て判断」は無理であり、バッターは球を視認することなくバッティング動作に入っている。
もちろん球種、つまりストレートなのか、フォークなのか、カットなのかは事前に予測はしている。(してない選手もいるだろうが)
しかし、球速がどれくらいかや、コースまではなかなか予測しづらいので、後は無意識な身体の反応によるしかないのだ。
そもそも、大脳生理学の研究では、かなり前から人間の自由意志は否定されている。
人が何かしようと思うよりも先に、脳の中では運動野の反応が起こっている。
りんごをつかむといった、ごく日常の些細な仕草でもそうなのだから、いわんや視覚が利きようもない迅速な動作では、身体が意識を超越して反応しているのは間違いない。
番組では去年の8月のジャイアンツ戦で、向こうの田中というピッチャーと対戦した際、いつものように考えながらバッティングするのをやめてみたら、ストレートを打って、ライトスタンドへのホームランとなった。
これを「認知をこえて」と表現していた。
ジャイアンツの田中というのは今シーズン、大した活躍もしておらず、データがなかったので、近本も考えようにも材料がなかったんだろう。
もちろん予め球種は予想していただろう、ストレートが来ると、でもそれ以上はデータもないし無心でバットを振ったらホームランになったというわけだ。
本来、プロのバッティングはそうあるべきもので、そこに開眼した近本は今シーズンますます目が離せない。
大阪の金持ちが住んでいる吹田市、箕面市、豊能町のあたりには、天牛書店、ブックオフ関大前店、田村書店といった古本屋がある。
天牛書店は北大阪急行の緑地公園駅から徒歩10分、ブックオフは阪急の関大前駅すぐ、田村書店は北大阪急行の千里中央駅すぐにある。要するに、それぞれ割と近くにあるのだ。
この地域には大阪大学や関西大学といったちゃんとした大学があるので、仕事絡みで本を買う人がかなり多いのは間違いない。つまり商品になりそうな本が容易に古本屋の手に入るということだ。
しかしこの3店舗の品揃えは全然違う。
天牛書店には文学書、写真集、図鑑、歴史書、和本、稀覯本、岩波文庫、ちくま文庫、講談社学術文庫、鉄道本、マンガ、哲学書、図録、音楽関係の本、手芸や料理の本がある。
その一方で、ほとんど全ての実用書、医学書、上に示した以外のほとんど全ての文庫本や、新書本、タレントの写真集、自己啓発ややる気を出すための本、ハーレクイーンロマンスの類、やおい本、BL、エロ本、ほとんど全てのジャンルの雑誌、映画のDVDやレコードは置いていない。
つまり一部の本好きをターゲットにした店なのだ。
これに対してブックオフは、全てのジャンルの本を取り揃えている上に、映画のDVDなんかも大量に置いている。
しかし、天牛書店とかぶっているジャンルの本なんだが、誰の目から見ても、圧倒的に天牛書店の在庫の方が優れている。
田村書店は時代小説の文庫本や実用書、自己啓発の類が大半だ。天牛書店と比較できる水準では全然ないし、ブックオフと比較してもひどく見劣りしている。
さて、おれが言いたいのは、吹田市や箕面市という、他の地域に比べたら圧倒的に、古本屋商売がやりやすい地域なのに、一部の古本屋にだけ本が集中してしまうということだ。
ブックオフはCMを打っているし、全国的にもよく知られている。またどんなジャンルの本でも基本的には(在庫が多いからと拒否されることはあるけど)引き取ってくれる。実にありがたい古本屋だ。
しかしそれにもかかわらず、いい本を十分には集められていない。
田村書店なんか、新刊の書店としては規模も大きく、いろんなジャンルの本を網羅的に集めている。小説も哲学書も、岩波文庫にしても、ちくま学芸文庫にしてもここで買う人は多いと思う。
そして読み終わったら、田村書店に売ることも出来るのだ。
しかしお客さんはそうしない、天牛書店に売るわけだ。
この古本屋は創業100年をこえる老舗で、おそらく何代にもわたって売ったり、こうたりしてる人がたくさんいて、そういう客は保守的で、別の古本屋を選択しないのだ。
天牛は昔の商店街の個人商店であり、ブックオフはイオンみたいなものだろう。
商店街には、それぞれ特色のある店があって、買い物を楽しめるが、やはり品揃えの面や値段では、イオンには太刀打ちできず、閑古鳥がなく状態のところが多い。
しかし、こと古本業界だけは、実に不思議なことに個人商店が勝ってしまっているのだ。