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古本屋日誌
芳賀徹が中央公論社から出した『外交官の文章』は近代日本の歩みを、当事者の日記や自伝をもとに読み解いていく労作だ。
不平等条約の解消に尽力した陸奥宗光の回顧録『蹇蹇録』の話はとりわけ秀逸。
例の東学党の乱の原因なんだが、日本が朝鮮の身分制度の解消を命じたことに反発したことがその一つとして上がっているということだ。
わが国は明治になってとりあえず四民平等を建前として(身分制度でしかない天皇制を温存したけどね)やったきたが、朝鮮にはまだまだ封建的な身分制度が根強く、これが近代化の桎梏となっていたのだ。
しかし大衆の、ある部分は、強くこれに反発して身分制度の温存を求めて反乱を起こしたのだ。
こういう事例はインドのセポイの乱でも見られたことだ。
いわゆるカースト制度は、イギリスの植民地支配にとって邪魔な面があって、とりわけ軍隊においては、カーストにこだわられては作戦がスムーズに遂行できないので致命的だ。
そこで、これに手をつけようとしたところ、激甚な反撃を引き起こして、結果、植民地支配そのものが危機に瀕してしまったのだ。
要するに、これまで通り差別したい大衆の感情が、植民地支配を危殆に瀕せしめたということになる。
くだらないコロナ騒動が終息して、京都は再びオーバーツーリズムとなっている。
観光業者は潤っていようが、関わりない住民にとってはわずらわしいことだろう。
そもそも旅行に出たくなるのは、かなりの部分が洗脳である。
日常を離れたくなったとか、旅先で癒されたいとか、そういうストレスの捌け口として旅行が選ばれるというのは思い込みに過ぎないということだ。
美味いメシなんか、自分住んでいる街でいくらでも安く食べられる。
温泉とかいっても、薬局でちゃんとした入浴剤をこうてきたら、旅先の源泉なるものと何も変わらない。
美しい風景とかいっても、近場でいくらでも楽しめるところがある、本人はバカだから知らないだけだ。
かなりの運賃を払い、時間もたくさん使って飛行機や特急に乗り続け、ホテルに辿り着いて、自分の住んでいる町でも食べられる程度の食事をありがたがっていただくことに意味があるのかということだ。
美しい風景といったところで、オーバーツーリズムでゴミも散乱しているし、そもそもたくさんの観光客で混み合っている。
ネットのイメージビデオや、パンフレットの美しい写真はプロのカメラマンや業者が何回も掃除してゴミを除去した上で、アングルを考えて撮った究極の一枚だ。そんなものに現地で出会えるわけがない。
また、ホテルや旅館、温泉の従業員も内心「あーまた来たのか、もう客多すぎる。やめてくれ‼️」思っているし、人間だから表情や仕草にもそのことは表れる。
その程度のことは、旅行客もさすがにわかっていながら、それでも休みになるとまた旅行に出てしまうというのは、洗脳のなせるわざだろう。
その影響で、京都市内は地価が上がり続けており、もはや古本屋の商売はやりづらくなってしまっている。
地価の上昇で賃料も上がってしまい、古本での売り上げではまかないきれないのだ。
一部の古本屋は店舗での営業を諦めて、ネットと全国の古本まつりへの出店で生き残ろうとしている。
ネットでの販売なら、登録料は高くても月に5千円くらいだから、安心だ。
古本屋といえば倉庫が必要なんだが、その賃料もバカにならない。
そこで、自家用のバンにみかん箱に詰め込んだ本を積み上げて、倉庫代わりにして、そのまま全国の古本まつりを巡業する営業形態をとるのだ。
なんか、ちょっと前の香具師みたいだよね。
車寅次郎みたいに、気の向くまま、風のふくまま流れに流れてというやつだよ。
双葉社からゴトウユキコの『天国』が出た。
ゴトウユキコはこれまで原作付きのマンガをいろいろ描いてきたが、これはオリジナルの短編集で、よくできている。
中でも「2月14日の思い出」は女の高校生が犯した性犯罪を描いたもので、構図や絵柄なども上手い。
恋に恋して暴走する若者の心理が克明に綴ってある作品で、現在の若者にも受け入れられるものだろう。
俺はこの程度では物足りないけどね。
畑中純が『まんだら屋の涼太』で執拗に描いたややこしい人生の重みの方が心打たれる。
大阪落語の『いかけや』の最後に山上参りが出てくる。
脚半にこうかけ、金剛仗をついた道者を見て、いかけやが「山伏」だと思い込んで話しかける展開だ。
俺の小学生時代には成人儀礼として、山上ヶ岳に登り、「西の覗」から身を乗り出して精進を誓う行事がそれなりに行われていて、これが「山上参り」なのだ。
奈良県の中央に伸びる大台ヶ原山系の北部にある山上ヶ岳は標高1700メートルを越す。
ここに登って、さらに「西の覗」といわれる崖に迫り出した岩場から吊り下げられて精神を鍛えるのだ。
この山上ヶ岳山頂には金剛蔵王権現をまつる大峰山寺があって、徳川時代前期の建立にかかり、重要文化財となっているお堂がある。
高さは、13メートルもあって、総瓦葺きで、内陣に安置されている金剛蔵王権現は秘仏だ。
それにしても1700メートルもの山の頂上に巨大なお堂を建てる労力は大変なものだ。木材は山の中だから近場で揃えられたかもしれないが、瓦は下から一つ一つ運んできたものではなかろうか。
そもそも、重要文化財で1700メートル地点にある建造物て、他にあるんだろうか❓
今はこのお寺にも、電車とバスで近くまで行ける。
しかし、それでも山頂までは4時間も、歩かないとならない。
以前は歩いていくしかないから、山頂に至るまでの苦労は並大抵のものではなく、頂上に突然、巨大な伽藍が現れた時の驚きや感動は並大抵のものではなかったろう。
こないだ最高裁が再転換手術をしてなくても、自分が「心は女性です」というのならそれを認める旨の判決を出した。
到底容認できない話だよな。
コラピントの書いた『ブレンダと呼ばれた少年』(無名舎)によれば、ユダヤ教徒の赤ん坊で、宗教上の決まりから小さい時に包茎手術をするのだが、誤って全体を切り落としてしまった。
やむなく性転換手術を施されて女として育てられた。
昔は男女の好みの差異(赤系統の服を女が好むとか、男はままごとのような遊びを好まないとか)は後天的な、文化的な育てられ方の違いから生まれると考えられていた。
ところがこの「少女」は成長につれて、いわゆる女らしいものを好まず、赤やピンクの服、スカートなどを嫌悪して、男性的な趣味を持つようになったのだ。
ようするに、性転換手術を施そうが、そもそも遺伝子はXYなんだから、変えようがないわけだ。
それなのに、本人が「心は女性です」と言ったから、女なんだと考えるのは、生物学的な知見を無視しているわけだ。