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古本屋日誌
昨日の朝日新聞の「天声人語」で評論家の加藤典洋が死んだことを取り上げ、その「敗戦後論」につながる文脈でマークゲインの「ニッポン日記」が出てきた。
GHQから日本国憲法を示されて「15分だけ時間をやるから見てみろ」と指示される、しばらく経って現れたGHQの担当者は「原子の力を感じる太陽の下でくつろいでいたよ」と言い放って原爆を落としてやったよなと圧力を加えてきたと言う話だ。
加藤典洋は憲法が押し付けであったこと、アメリカへの服従が依然として続いていることを指摘して、護憲派のいう憲法擁護に一石を投じようとした。この流れは今もくっきりしていて白井聡がそうだ。
加藤典洋や白井聡は日本が国家として不十分で、アメリカから自立しないといけないと言っているわけだが、何の説得力もない。戦後の70年以上アメリカに依存して、特段問題なくやってこれたわけだから、彼らの言動にはリアリティがない。プラトンの「国家」やルソーの「社会契約論」を読みかじり、一知半解に無い物ねだりをしているだけだ。
伯夷叔斉は殷周革命を嫌い、周のぞくははまぬと首陽山で山菜を食べて餓死した。加藤典洋にせよ、白井にせよ、せめてそのくらいの気合は示してもらいたかった。まあ口だけの曲学阿世には思いもよらなかったろうけどね。
加藤にせよ白井にせよ、御都合主義の節操のなさが気になる。アメリカの核の傘で防衛されて、繁栄を謳歌、両人ともにその恩恵を十二分に受けつつ、なお反米を唱え、自立をゆう根拠がよくわからない。
伯夷叔斉でも「食っているその山菜は周のものやろ、周の世話にはならんと言うのなら、何で食べるんや」という批判もあった。
ラテンアメリカの左翼ゲリラ「センデロルミノソ」は現行の政府権力を一切認めず暴力で権力簒奪を目指したが、その是非はさておき現行の政府が提供する社会福祉や年金、その他は全て受け取りを拒絶していた、当然のことだろう。
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呉座勇一の「一揆の論理」はもともとトンデモ本で一世を風靡した洋泉社から出た本だった。ボレミティックで、若い頃の呉智英を思わせる傲岸不遜で、挑発的な行文が楽しかった。
呉座の大風呂敷が愉快だ。曰く「日本では大衆がデモなどで集まって政治を動かす伝統がない」「戦後の食料メーデーは25万を動員したし、60年安保もかなりの人が国会前に集まり抗議したが安保条約は批准されてしまった」
なるほどそうかもしれない。別に大衆が世間を動かさないといけないわけでもない。
網野善彦は後醍醐天皇がバサラで、鎌倉幕府に対抗するために土民や大衆を組織して戦ったと主張し、お高くとまったイメージの皇室の歴史的なありかたに一石を投じた。しかし網野も結局左翼であって、大衆のエネルギーなるものに幻想を抱いていた。
しかし呉座勇一はそんな旧時代の幽霊に一切とらわれない。
唯物史観に毒されて一揆は反体制的で、竹槍で武装していて非妥協に戦った階級闘争だとか、直訴はご法度で佐倉惣五郎のようにいくら百姓に分があっても処刑されてしまうとか、われわれが高校で教わった知識がおかしいことは岩波新書の勝俣「一揆」などで明らかになってきた。
呉座のこの本はその流れを決定づけるもので、徳川時代の一揆の武装は竹槍ではなく、鎌や鋤であり、不当な年貢を要求する代官の罷免を藩主に願い出るもので、決して体制変革的なものではない。また直訴した首謀者も処刑と決まっていたわけではなく、許されたケースの方がずっと多いとある。
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中野孝次は2004年に死んだがその直前半年分くらいの日記を付けていて文春文庫から「ガン日記」と題して出版されている。
中野は碁が趣味で碁会所に出向いて手合わせをしていたがどうも胃のあたりがムカムカしてすぐれない、病院で診てもらい細胞検査となって食道がんが見つかります。
高齢(79)ということもあるし、抗がん剤や放射線治療が身体に大きなダメージを与えて正常な日常生活を営めなくなってしまうことを危惧して初めは漢方薬などの民間治療を選択して過ごします。
中野には「清貧の思想」というベストセラーがあって、ひたすら金儲けに血道をあげるのではなく、近代文明の利器に頼った快適な生活を嫌い、田舎で慎ましく過ごすのをよしとする考えが述べてあります。
中野はもともと千葉の工務店の跡取り息子で、大工になることを嘱望されていたが、その手の仕事を嫌い、勉強に励んで東大に合格しブリューゲルなどのドイツ文学の研究家となりました。まああれですね、日本の田舎を毛嫌いするようあるところの西洋かぶれですね。ところがかぶれたまま生涯を全うするのでなく老境に入ると今度は日本の田舎に憧れて「清貧の思想」とか言い出すわけです。
それはいいとして、ついに命の危機が迫る中で標準的な治療をあくまでも拒んで静かに枯れるのを待つか、そうではなくやはり入院して延命治療を選択するのかの瀬戸際に立たされます。結局彼は入院して放射線治療などを行う道を選択します。
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きっかけは本郷が井沢元彦を「立派な業績をあげている」と持ち上げたことのようだが、「本郷和人はこの10年まともな論文は書いておらず、大した研究もしていない」「その著書も同じネタの使い回しで、 武士の野蛮さを取り上げた話は何回も何回も違う本で繰り返して書いている」「本郷の応仁の乱の解釈はあまりにも単純でとうてい承服できるものではない」などと痛烈に批判している。
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1月末に突然破産して全店閉まってしまった天牛堺書店ですが、先週堺筋本町の船場店が再開していました。元天牛堺書店に勤務していたバイヤーが独立して始めた古本屋で「槇尾古書店」という屋号でした。
早速オープン二日目の火曜日に出向いたところ200円、500円、2000円、3000円の均一販売と岩波、ちくま、講談社学術、平凡社ライブラリー、岩波同時代ライブラリー、講談社文芸などのコーナーがありました。
レジ奥の棚には「天牛書店」から届いた清酒とみられる祝物、店内の各所には「厚生書店」「大阪古書組合」東京の古本屋などから届いた花籠が並んでいて華やかでした。
開店祝いの花籠は客が引き抜いて持って帰るのが一応習慣になっているのでしょうが、二日目だったんですが、まだどれも完全な状態で残っていたので、不肖私めもどの籠からも引き抜いてお祝いしていましたら「籠の下に包むものとかを用意してますから、どうぞお使いください」と丁寧なお言葉をいただきました。
梶山彦太郎の「難波古京考」を入手しました。梶山は例の「大阪平野のおいたち」で有名な考古学者で、古地図や実測をもとに大阪の古い姿を再現する研究では定評のある人です。
ずいぶん前なんですが1981年の秋頃「毎日新聞」の一面トップに梶山の発見が載ったことがありました。それは谷町筋や上町筋などの南北の道が正対せず5度ずれているのは、孝徳天皇の豊崎宮の都城がそうなっていたからであり、後の聖武天皇の難波宮の都城が正確に南北を指すのとは対照的だとして、今発見されている大阪城のすぐ南の難波宮とは違うそれの南西の位置に豊崎宮があるとするものでした。
京大の岸俊夫は「そんなことゆうても宮跡がでなんだらなんとも言いようがないやん」という反応でした。
結局梶山の言うような宮殿跡は発見されず、今では既に見つかっている難波宮跡が豊崎宮だとされています。