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古本屋日誌
普通の会社では、どの人が休んでも滞りなく業務は回っていく。
それが正しい姿であることは言うまでもない。
ハンナアーレントが「人間の条件」で家庭での親の子どもへの接し方が産業革命の前後で変化したという。
家内制手工業では子どもも大切な労働者であるから、親は厳しく叱り、仕事を身につけさせようとした。
なにせ子どもが仕事してくれないと、たちまち立ち行かなくなる自転車操業だったから。
しかし産業革命を経て工場で子どもが働くようになると、家庭は仕事の疲れを癒す安らぎのスペースになり、親も優しくなった。
工場での労働者の位置も変化した。個々人は剰余価値を生み出すコマであって、なくてはならない存在などではない。
アーレントの話はその通りだよな。
ある特定の個人に業務が偏り、その人が抜けてしまうと回らなくなるような会社は間違いなく破綻するだろう。
要するに社員は業務のベルトコンベアーを前にして、与えられた職責をこなしているに過ぎない。
職制(部長とか課長とか係長など)はベルトコンベアーが回っているかどうか確認して、無理がある場合は別の人を入れる手配をするに過ぎない。
その上で個々人が、「俺がいなかったらこの部署はダメになる」とか「俺がエースだ」みたいなやり甲斐を感じるのは、客観的には間違い(つまり事実に反しているという意味だ)ではある。
しかし、それはその個人の生きがいや心の持ちようの問題としては、なんら問題はない。
むしろ人間疎外からの回復ということだから、ごく自然な流れなのだ。
それにしても物事にはほどらいというものがある。
漢字は9割以上が形声文字なので、音符には取り立てて意味はないのが普通だ。
つまり銅なんかなら、音符の同は発音を借りているだけで、おんなじだとか何かと等しいてな意味はない。
餌も耳は音符だから、4000年前のシナでは動物にエサとして耳を与えたなどということはない。
だから、エサという漢字は「食自」と書いてもよかったわけだしなんなら「食地」の可能性もあった。
白川静は漢字の語源に独創的な見解を出して、平凡社から浩瀚な辞典を何冊も出している。
よく知られているように「道」は三叉路に生首を供えて道中の安全を祈願した様子を表すなどという解釈だ。
つまり漢字のどの構成部分にも意味があるという考えであり、先に述べた形声文字の考え方からすれば、大いに問題がある。
また漢字の起源などというネタは、4000年も前にただ一回発生しただけの、繰り返しが効かない現象であり検証が不可能だ。
白川の話は読み物として確かに面白いけど、真実かどうかなんかわからない。
すまじきものは宮仕の通り、人に使われる身となると、上の覚えが、気になるものだ。
自分のちょっとした言葉や行動がどう上司に取られるのか、気にならないわけではない。
でも、これがだんだんひどくなって疑心、暗鬼を生むみたいになってしまう人が多いよね。
日能研関西の話だが、ここは小学生相手の進学塾なんだが、仕事であるから、当たり前だが有給休暇も認められる。
しかし、厄介なのが塾の場合、仕事が授業であるから、ある先生が有休で休むとなると、代わりに誰かが授業しなければならなくなることだ。
でもそんなことを気にしていたら、休みなど取れやしないし、あいみ互いということもある。
ある先生が有休を取って休んだ。
休み明けに「私の授業ですけど、誰がやりました❓」と聞いたらずっと上の、部長職を務めるひとがやったことがわかった。
途端に顔色も青ざめ、すぐその部長のところに駆けつけて
「先日は誠にあいすみません、どうしても抜けられない所用で休んでしまいました。代わりに授業してくださったそうで、お手間取らせました。」
「いや、いや、かまへん、かまへんよ。なんかの時はまたゆうてください」てなやりとりがあった。
至極当たり前の対応だろう。
むしろ謝られた方が当惑しているかもしれないよな。
中学受験の進学塾である日能研関西に勤務していた酒井(担当は算数)は、2000年1月に過労死してしまった。
この会社ではその当時レコーダーでの勤務管理が行われておらず、正確な勤務時間はよくわからない。
ただ死んでから、同僚が記憶を辿ったり、保護者会の資料を探してきたりして復元したところによれば、くも膜下出血を発症するまでの53日間、全く休みを取っていなかった。
これでは体調も崩れるだろうし、また精神的にもストレスが溜まりそうだ。普通なら有休を取るとか、ズル休みするとか、医者にかかるとかするものだ。
ところが休まず、医者に診せることもなかったのは実に不思議だ。
進学塾だから、難関中学を目指す生徒のためにするべきことがいろいろあるし、また職掌は算数課の課長だったから、課員の統率、業務分担で頭を悩ませることもあっただろう。
それにしても、所詮は仕事だ。
金が要るからやっているだけではないか。
石ノ森章太郎の「HOTEL』は客のいう訳の分からない要求をホテルマン達が見事にこなしていって、めでたしめでたしとなる作品だが、バカバカしい。
そんなサービスが受けられるのは、一泊何十万も支払ったからだろう。対価に見合うサービスというだけの話。
でも進学塾の給料はそんなに高いものだろうかね。
そこで酒井の給料を調べてみたら、年に3回あるボーナスを入れて年収は780万くらいだ。年齢は37で、社歴3年8ヶ月、課長職。
これを、どう考えるか。
それなりの金額だし、地位もそれなりだからこだわりたいという想いがあったのかもしれない。
でも大した金額ではないよな。
自分の能力はだんだんわかってくるものだ。ほかの会社に移っても十分やっていけそうだとか、中学受験はまだ需要がある産業なんだから、焦ることは何もないとか、一寸考えればわかりそうなものだ。
では、何故彼はそう考えなかったのかなあ。
『本の雑誌』3月号に10ページにもわたって「本の売り方」なるマンガが載っている。
古本屋の話ではなく、新刊書店の話題だ。
毎日毎日次から次へと発行される大量の本を、本屋の限られたスペースにいかに並べていくかという話だった。
新刊は発行から三か月以内であれば、売れなければ出版社に返品できる。
つまり仕入れに金がかからないわけだ。売れたら儲けになるし、ダメでも返品できるのだ。
しかし、その後は「この本は売れるに違いない。まだ置いておこう」「新たに仕入れよう」と決めたら、その分は基本的にすぐ代金を支払わないといけないのだ。
売れもしない本を抱え込んだりしたら大変だから、本屋の店員はその力量を問われることになるわけだ。
来月、本屋大賞の発表がある。
受賞作はそれなりに売れるから、平積みスペースを広く取って、客の目を引くようにしないといけない。
しかし、どうしたことか村上春樹の新刊が大賞発表の翌日刊行となる。
こちらもかなり売り上げが期待できる。しかし平積みできるスペースは限られる。
とりあえず本屋大賞の受賞作を平積みスペース全部をつかって並べる。
そして、めんどくさいけど、その翌日、大挙してやってくる村上春樹の本は、前日のスペースを半分削って置き直す。
新刊書店はこのように「いかにして売るか」が大きな問題になってくる。
古本屋、それも通販だけの場合は基本的にどう売るかは問題にならない。
どう仕入れるかが問題で、売る方はなんとかなるからだ。