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古本屋日誌
中学受験の進学塾である日能研関西ではこれまでに少なくとも2回過労死事件が発生してしまった。
俺はこの塾に長らく勤務しているので思うところもある。
死んでしまった連中のこともよく知っている。
特に初めの過労死事件は2000年の1月に起きたから、もう20年以上経っているわけだ。
これまでは神戸地裁での裁判で、やむを得ずこれに触れることはあっても、個人的には避けて通ってきた。
だって何をしても、死んだ人は帰っては来ないからつまらない。
しかしさすがにこれだけ年月が過ぎてみたら、書き残しておいてあげないといけないこともあることに気がついた。
まずずっと気になっていることなんだが、体調が悪くなってからの経緯だ。
誰しも体調を崩すこともあるし、それが尋常ではないとなれば、医者に行く。
ヤブ医者も多いから、誤診されて納得できないこともあるが、そうなれば別の医者にかかるだろう。
ところが過労死してしまった酒井は医者にかかった形跡がない。
毎年会社で行われる健康診断では高血圧が指摘されていたことはわかっている。上が170くらいあるのだ。
本人にも「それ、あかんのんちゃうん。」と聞いてみたが
「父親も一緒で、血圧が高かった。でも別になんともなかったよ」と相手にはしてもらえなかった。
忙しくて、少しくらいの体調不良なんかにはかまっていられないということなんだろうか。
タブロイド版の『日刊ゲンダイ』には今はどうか知らないが、1999年当時はリーマンが医者にあれこれ相談するコーナーがあった。
ある時そこにはこんなような相談が載っていた。
「週に残業が20時間くらい、いつもあって、疲れが取れません。夜も床についても、なかなか寝られなくて困っています。どうしたらいいでしょうか❓」
医者がどう答えていたのかは覚えていない。
しかし酒井はその記事を指差して「これは働き過ぎ。身体が悪くなるのは当たり前だな。休んだらいいのにね」と何を当たり前のことを相談してるんだ、バカだよなあと笑いながら話しかけてきた。
まったくその通りだ。
働き過ぎたらからだを傷めてしまう。
当たり前のことは、ちゃんと彼は理解していたし、休みもせずに医者に「どうしたらいいでしょうか」と相談しているリーマンの非常識さを笑ったのだ。
航思社から出た、岡崎次郎の『マルクスに凭れて六十年』は極めて良質のエンターテインメントだ。
北海道から出てきて、放蕩を尽くしながら、なんとか東大の経済学部を出て、翻訳の仕事を始めた。
岩波文庫の「資本論」なんだが、先輩の向坂逸郎との共訳となったのに、実際は全て岡崎が作業をやる羽目になった。
それにもかかわらず、印税は折半。
1937年の人民戦線事件に連座したことになり逮捕され、1年に亘り投獄される。
戦後は九州大学に色を得たが馴染めず、四年で退職して、今度は法政大学に勤務するが、おりから新左翼運動の胎動期で、嫌気がさしてまた辞めてしまう。
その後翻訳で生活を立て直し、大月書店から新しい資本論を出すが、これが向坂の怒りを買ってしまう。
「俺に断りもなくほかの出版社から『資本論』を出すとは信義にもとる」と向坂は激怒するのだが、もちろんいわれのないいちゃもんだ。
しかし岡崎は「向坂さんが無礼を詫びるというのなら、今後は岩波文庫の『資本論』の印税は全てお譲りする」と弱気になって受けてしまうのだ。
もう言い古されたことだが、激動の時代に生きた彼らのノンフィクションの凄みには、我々、平和で穏やかな時代に生きるものは、太刀打ち出来はしない。
それにしても、岡崎は1984年、80にして忽然と姿を消してしまい、未だに消息はつかめない。
おそらく嫁と一緒に自殺したのだろう。
この本にもそれを仄めかす記述がある。
何か目的があって生きるのなら問題はないが、「なにもやりたいこともないのに、ただ息をしているためにいやいやながら仕事をする、ということほど詰まらないことはない。ただ徒らに老害を撒き散らすだけである」
確かにそうかもしれないけれどね、だからと言って自殺せんならんとはならないだろう。
大江健三郎が亡くなった。
88だから仕方がないのだが、我が国の純文学界に君臨した巨人の死は残念に思える。
天才にありがちな、不思議なアンバランス感が大江にもあった。
作品の世界ではあれほど圧倒的で、先駆的なそして不道徳な内容を描き込んだ人物が、政治の世界では極めて真っ当で、しかも的外れな発言を一貫して繰り返した。
彼の中ではそれは一貫性のある行動なんだろうけど、われわれ一般人には極めて不思議に感じられた。
(ただし、ノーベル賞を受賞した後、文化勲章を「私はそもそ天皇制なるものを認めない、そんな国から貰いたくない」として拒否したのは大したものだと思ったけどな)
新潮社から出た「個人的な体験」は1965年の刊行なんだよなあ。頭に障害のある長男が生まれた時の父親のエゴイスティックで、情けない言動をこれでもか、これでもかと粘着質な文体で描いた。
昭和40年、そんな大昔に、わが子の死を望み、それを医者にも公言して、自堕落な生活にふけるなどという不道徳な人間の姿をよくまあ書けるもんだよなあ。
今日は嫁と京都駅近くの水族館に行ってみた。
オオサンショウウオやケープペンギン、クラゲがメイン展示で、2200円かかるけれどなかなかよかった。
人気のイルカショーなんだが、どうしても密になってしまうので当面やらないとのことだ。
ショーの行われるスタジアムには入ることができて、何頭かのイルカが水面から顔を出すところなんかは見ることができる。
春の日差しの中、親子連れやカップルで賑わっていて喜ばしいことだ。
また公園の出入り口付近ではイルカショーに反対するNGOが柵にパネルや写真を貼り付け、チラシを配布して情宣に励んでいた。
俺もチラシをもらったんだが、大地などで行われているイルカの追い込み漁は残酷だとある。
食用にならない小さいイルカは殺してしまい、その血で湾内は真っ赤に染まる。
イルカショーをさせられているイルカは本来は生きた魚を食べる生き物なのに無理やり死んだ魚を食べさせられている。
また本来海で自由に、1日に65キロ程度泳ぐ生き物なのに、狭いプールで飼い殺しにされているのは問題だという主張だ。
海外では養豚場を環境保護団体が襲って、小屋の鍵を爆破して豚を野に放つ環境テロや、捕鯨に反対して、捕鯨船にまとわりついて妨害行為をする団体があることはよく知られている。
またビーガンという肉も魚も食べない食生活を行う人たちがたくさんいることも知られている。
こういうのはイデオロギーであるから、普通の人と話をしてもなかなか噛み合わない。
ただ水族館にはイルカのほかに、ペンギンやオオサンショウウオやイワシの群れやタイ、クラゲ、オコゼその他いろんな魚がいる。
その中で特にイルカにだけ焦点を絞って問題にするのはちょっと面白い。
彼らにはクジラやイルカは人間に近い、あるいは人間以上の存在と考えられるのだ。
沖縄では癒し系のマリーンレジャーとしてイルカと泳ぐというのが昔からある。
また悩みを抱えた人が、海に入り、並走するイルカにお伺いを立てると、イルカが人間の悩みを察して正しい答えをアドバイスしてくれるという、オカルトじみたマリーンレジャーまである。
本当にイルカに人間とコンタクトできる能力があるかどうかや、人間以上に知能があるかとか、知能があれば人間と対等なのかなどという実証不可能な問題を孕んでいる。
したがって議論には馴染まないわけだ。
航思社から岡崎次郎の『マルクスに凭れて六十年』が出た。
1983年に青土社から出た本の増補版で、古書価は高騰していて2万くらいしていた本だ。
それが増補もあり、解説や脚注も付いて4000円弱で読めるのだからありがたいことだ。
岡崎は『資本論』の翻訳などで知られたマルクス主義の研究家で、岩波文庫から向坂逸郎と共著で何冊も翻訳が出ている。
その岡崎が自らの半生を自嘲気味に描いたのが本書だ。
北海道の出で、東大の経済学部を卒業したはものの、1937年の人民戦線事件で逮捕、勾留{まる1年に及んだ)、その後渡満して満鉄調査部勤務となる。調査部では上と反りが合わず、閑職に追いやられる。
なかなか波乱の人生で、今のわれわれの薄っぺらい歩みとは雲泥の差がある。(もちろん、薄っぺらい人生の方が楽だし、平和であることは言うまでもない)
岡崎は地道にドイツ語の原書の翻訳に励ます学究肌も持ち合わせてはいたが、基本的には遊び人で、麻雀、囲碁、将棋をはじめ飲む、打つ、買うの三拍子とも揃うような状態だった。
一高時代は寮に入っていたのだが、もちろん相部屋であり、大半はさして学問に興味を持っていない学生であるから、毎夜毎夜宴会やら、将棋やら、夜遊びに余念がなく、到底集中して勉強に励める環境ではなかった。
岡崎のえらいところは、普通なら惰性で遊びに流れてしまうところを、踏みとどまり、一高の定期試験や翻訳の仕事がある際は「身体を壊した」と言い訳して寮を出て静かな環境に移って、勉学に励んだ点だ。
彼が堕落し切らなかった要因は他にもある。
学生時代から出版社から翻訳の仕事が来ていて、その締め切りはどうしても守らないといけない状態にあり、それが生活にリズムを与えて、夜遊びに一定の足枷となったことだ。
このあたりは、マスコミや出版社が櫛比する東京の素晴らしいところで、大の大人から「あんさん❗️頼んまっせ、この原稿落としてもうたら、わし腹切らんなんさかいな、あんじょうしたってや」と言われたらさすがに腹をくくらな仕方ないでしょう。
大阪や京都はそれがないから、遊び人体質の学生は止めどなくなってしまう。
歯止めといえば、いくらでもある予備校や塾の求人で、学生時代から教壇に立ってしまう。
これはたしかに生活に張りをあたえるのだが、そのまま就職してしまうことが多い。