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古本屋日誌
今朝も少し肌寒い感じです。昨日は仕事の帰りはかなり遅くなったんですが、天気予報通り雨になっていて、あらかじめビニール傘を持って行っていたのは良かったんですが、例によって南海電車の車内に忘れてきてしまいました。おかげで萱島駅から家まで濡れ鼠となりました。電車の中では傘を手に持っておくのがめんどくさいのでついつい地べたに平置きにしてしまい、ために下車する際に忘れがちになります。
先日お客さんから谷岡ヤスジの「天才の証明」を始めとするほぼ全ての谷岡の本をお譲りいただきました。「天才の証明」は1999年に早逝した後で実業之日本社が追悼出版したもので呉智英の解説、いがらしみきおとの対談、相原コージや江口寿史らのトリビュート作品を集めたものです。谷岡は愛媛の宇和島の出身ですが既に高校生の時から地元の新聞に連載を持っていました。このへんが同じ天才でもいしいひさいちとは違うところでいしいは初期の作品は同人誌の形でしか出せなかったわけだが、谷岡は初めから檜舞台に立っていた。
あらためて驚くばかりの作品に触れて構図もそうだし、中身も、魅力的な怪獣もそうだが発想の原点が知りたくなるばかりです。私は「メッタメタガキ道講座」の幻獣「ガリ勉ガリラー」が子供の時から好きでした。ガキ夫が夕方なぜか震えていて窓に鍵をかけているところへ待ってました「ガリラー」の登場です。このガリラーというのは頭が禿げていて下駄を履いて腹が巨大な怪獣みたいなもんなんですが、お母様のリクエストで出来の悪い子供のところに出現して無理やり勉強さすわけです。ガキ夫の母親も横に控えていて「お願いします」の声を合図に、ガリラーの大きな腹がぱかっと開いて中にガキ夫は吸い込まれます。さらに算数の教科書も吸い込まれて、まるでコンクリートミキサーのようにガキ夫と算数の教科書がぐるぐる回り、お母様のリクエストに従って国語、理科、社会のテキストが次々に投じられてややこしいミキサーカー状態となりました。最後は怒ったガキ夫がお母様をミキサーに投入するんですが、まあなんともどうやったらこんなことを思い付けるのか驚くほかはない。
今朝は適温でまあ春らしい陽気です。お客さんの注文を郵便局にお願いにしに行き、家の近所では二棟続いた旧家が取り壊されかなり大きな更地になりつつあります、視界がひらけて第2名神が通る車の姿までよく見えるようになりました。
かなり前に結核となり入院したんですが、病名が確定するのに8ヶ月以上要しました。最初は年末に39℃を越す高熱が出てびっくりして知り合いの医者に相談したら「それはインフルだから水分をきちんととり安静にすること、薬局で売ってる水分補給薬がええよ」というので、それをこうてのんで、まあしばらくして熱は下がりました。3月下旬に右手の掌や手首が腫れてきて何か塊があるのでびっくりして千林の整形外科を受診してレントゲンなどを撮り「何かできてるけどようわからへんから紹介状書くよって都島の医療センターで診てもうてや」とのことで、4月に入って医療センターに出向いて整形外科を受診したらMRIを撮って欲しいから予約してくれというので予約となり、5月の半ばに撮った。その間左耳が聞こえづらくなり天王寺の耳鼻科や千林の耳鼻科を受診したが「中耳炎だから、点耳薬を出すわ」で終わりとなる。さて都島の医療センターの整形外科の医者はMRI画像を見て「これは腫瘍やのうて、細菌性のもんやわ、でもどんな菌なんかは切って調べやんとわからへんわ。いつ切るのか決めてな」という。「家族に結核の人はおらんかな?」というので私もネットで症状を調べていて薄々そうちゃうかなと内心うたごうてたこともありまあそやろなと思い「先生、家族には結核の人はありませんわ。そしたら肺のレントゲンなどを撮った方がええんですかな?」と尋ねた。「いや、それは必要ない。結核はな洗面所とかからも感染するんやわ」という。仕方なく「先生、夏は仕事が忙しいので手首を切るのは9月以降でよろしいか?」と聞いたら先生が言うには「それでええわ、実は夏休み中は子供の患者がおおなって大変なんやわ」と言う。
この一連の発言は問題ですね、結核の可能性をある程度持ってるようなのにレントゲンなどは撮らない、菌の検査も3ヶ月くらい後ですると言う、不思議な診断です。
今日はまだ少々肌寒さが残っています。しかしこれ以上暑なるとそれはそれで困りますね。
食の雑誌「あまカラ」には巻頭にいつも小島政二郎の「食いしん坊」が載ってますが、道頓堀の大野屋旅館を彼は定宿にしていたんだが、ある時番頭に宿泊を断られてしまった。理由は書いてないがまあご予約様でいっぱいとかそういうことなんだろうが、腹を立てて以後一切大野屋は使わないことにし、合わせて久米正雄とか腹心の者たちにも同じようにさしたとある。このへんが小島の面白いところでもあり、またその周辺で喧嘩が絶えないもとになっているのだろう。それはそれで非常に魅力的で楽しい。
しかし小島の個人的な魅力はさておき、旅館にとって高名な作家はありがたいようでもあるが、面倒な連中でもある。いろいろ便宜を図れといってくるし、そもそも夜型生活の人が多いから他の客からのクレームのもとにもなる。道頓堀にあるそれなりの宿なんだからそういう連中を相手に商売するメリットもないと考えても何ら不思議ではない。時代は変わるが千林商店街でもお店紹介のテレビがよく来ているんだが「お食事処 北田」は全部断っていて笑福亭鶴瓶が来たこともあったが「一切立ち入らないでくれ、迷惑だ」と対応していた。まあ当然だろう、そんなものに取り上げてもらう必要もないからだ。上方贅六という感じでそれはそれで清々しいと思う。でもまあ北田はわりと空いてたからなあ、店主がへんこなだけかもしれないなあ。なんせドラッグストアが道に商品を並べてるのは邪魔だと自転車で引いて通ってそれを店でみんなに自慢してたからなあ。
前に親しかった女の父親は古いタイプの角ばったベンツに乗ってたが、走ると周りが気を回して避けてくれるのを自慢していたなあ。ややこしそうな輩と関わり合いになりたくないのはこれも当たり前だな。
今朝は夜前から雨で風もあり少し寒いです。
金曜日に年一回恒例の三種混合ワクチン接種で、黒猫の兄弟を大和田の動物病院に連れて行きました。網をかぶせてから通気性の高いビニールのカバンに入れて自転車の前かごに乗せて連れて行くのですが、例によって雄猫が始終怖がり二駅離れた病院に着くまで鳴きっぱなしでした。メスの方は全然鳴かない、どっしりしたもので感心しました。病院ではストレッチャーのような診察台に乗せると体重も量れるようになっていて4つのオスネコは7.15キロで去年を0.35キロ上回っていました。メスの方は3.85キロでほぼ一緒でしたからいいんですが、さすがに7キロ台となると問題です。
オスネコはおいどの上を叩いてもらえると長い尻尾をはてなマークのように器用に曲げて喜びます。その時は後ろ足をしっかり踏ん張って静止して、お腹のぜい肉もプルプル揺れています、これはそれなりにダイェット効果があるかもしれないが、やはりエサを減らす、隠すなどの制限が必要だろうなあ。でも以前もエサの入ったボールを隠したり、猫じゃらしで運動さそうとはしたものの運動はしなかった。その上腹が減ったとわたしのズボンの裾から伸び上がって爪を立ててアピールする、座っていたらおこたの上に駆け上がってスリスリして仕事をささない。それでこっちが音をあげて結局エサをあげてしまう。
今朝も割と寒うて起きてからセーターをはおりました。先日お客さんから雑誌「あまカラ」全201冊(新聞状の付録付き)に加えて「甘辛春秋」全24冊をお譲り頂きました。老舗の和菓子屋である鶴屋八幡が出していた食べ物エッセイ雑誌ですが、たくさんの写真がグラビアページに収めてあって見て楽しく、読んで楽しい本だ。1952年の7月号に例によって小島政二郎の「食いしん坊」が載っていて小林秀雄と一緒に、今はもうなくなってしまった「生野」で鰻を食べた話があり、東京のものと違う脂ののりな味を誉めた後5分くらい他の人と話をしてからまた鰻に箸をつけたところもう皮が切れなくなっていたとか、生野の鰻の茶漬けはあっさりしていて食い足りないとか書くのが小島の真骨頂だろう。それでも小島は生野の鰻は東京とは違う美味さがあると認めているのだが、同じ号にこ当人の生野と柴藤の社長の鰻対談が載っていて、東京風の蒸してから焼くやり方を「あれは美味い脂を無理から抜いてしまい、ダシガラでしかない」と批判している。
まあなんでもありの方が当然面白い。
この号では文士の林房雄、例の大東亜戦争肯定論を書いた人ですがを今橋の「吉兆」に連れて行った時の話も出ていて林が大声で「こんなシャバシャバしたもんよう出してくるなあ」と小鉢料理に文句を垂れて、そのすぐ次のページには吉兆の湯木貞一の回顧談が載っている。まあ食べ物の話は個人の趣向がからむし、その時の体調や気分によっても変わってくる上に、そもそもうまいものを食べても美味さがわからない舌しか持たない人が実は多いということもあるから、論じるのは難しい。
いつかのささやき女将はもちろん湯木の店のことではなく「船場吉兆」のことなんだが、私はいずれの店も行ったこともないのでなんとも申し上げようもない。