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古本屋日誌
昨日仕事で三宮に出向くことがあり、久しぶりに「ブックオフ三宮店」に行きました。列島全体が大移動の今日この頃なかなか魅力的な品揃えで驚かされました。
専門書やきっちりした本は昔からの古本屋に売り、文庫や雑誌ムック本などをブックオフに売るなどということはなく、さすがに古文書はないものの、ほとんどオールラウンドであらゆる本が集まっていました。
興味深かったのは岩波文庫の棚で、量はそこそこあるんですが、魅力的な品揃えにはなっていない。ルソーの「エミール」「ほら男爵」「松翁道話」みたいな感じで「玉勝間」とか「英雄崇拝論」ルソーだったら「新エロイーズ」「告白」なんかは集められていない。
ところが講談社学術文庫は素晴らしい品揃えで最近人気の「昭和の精神史」や「第二次大戦に勝者なし」「ライフスタイルの心理学」なんかがあるのにはびっくりしました。
岩波文庫だけは読まない読者がたくさんいるわけはないので、やはり岩波文庫は人気が落ちてるのかなあ。岩波文庫は人文系の基本書が多くて例えばオットーの「聖なるもの」は人間特有の宗教的なメンタリティを分析した本で、非合理な心性を説いています。合理性を欠く帰依心の話は宗教の根源を論じているわけでかなり大風呂敷を広げているわけで、今のように、インテリに共有される「教養」なるものが崩壊したご時世では大方の支持は受けられないのだろうなあ。
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今朝はどんより曇っていて、予報では雨だという。気温は低うはないので湿り気もあってちょうど頃合だ。
京阪電車の萱島駅は1980年に高架の複々線工事が完了して、現在見られるような御神木を構内に取り込んだ形になった。高架のホームから下の改札口に降りる階段が、京都方面、大阪方面ともに三カ所設けてあるが、なぜか一番西側の階段だけは内側にも白いタイルが敷き詰めてあって外側の深緑のタイルとコントラストも利いて良いのだが、残りの2カ所は内側は白く塗った板が貼り付けてあるだけだ。
守口市駅から萱島駅までは1980年に高架となったのだが守口市駅、西三荘駅をはじめ萱島駅以外は全て内も外も華麗な色とりどりのタイル張りなのに、どういうことなんだろうか。タイルの数が足らんようになってしまったのか、それとも板張りの方が見栄えがするとの判断が下されたのか謎だなあ。
今朝もいい陽気で、風もなくおてらしさんも柔らかで春本番のような感じですな。
鶴橋駅の中にあって自動改札機から直接店内に入れる「ブックオフ鶴橋店」が今月末で閉店し、現在セールが行われています。1月の「天牛堺書店」の破産と合わせて古本業界は転機を迎えているという意見も聞きます。世間では心斎橋に本を読みながら寝られる、図書館にベッドをつけたようなホテルや店長がオススメの本をセレクトし抜いた個性的な品揃えを売りにしている本屋、著者を呼んでイベントも行う店、さらにはブックカフェなど本をメインにしながらも付加価値をつけた商売が盛んです。
本の価値以外に頼らなければならないとはバカではないのか?とかそこまでしないと売れへんのん?とかの意見はまあわからないでもないですが、娯楽が多岐にわたり、しかもそれなりの魅力を持っている現在、昔のようにとっつきにくいままのスタイルで本が売れていくほど甘くはありません。お客さんと色々な関係を結んで社会に貢献したいし、自分も成長したいという気合も感じられるし、今後ともこのトレンドは盛んになるでしょう。
ネットで古本を扱う我々のような世界でも一冊一冊の本の価値をきちんと発信していく作業は大切です。
そこで吉田満の「戦艦大和の最期」と阪本誠一の「あゝ戦艦大和」はいかがでしょうか。
吉田満の作品は救命ボートに乗り込んでいる兵隊がボートのヘリに乗せてくれとすがりついてくる兵隊たちを、このままではボートが沈んでしまうと怖れて軍刀で船べりにかけた手を切り落としていく描写があって、「そんなことまでしなかった、あれはフィクションだ」とか論争にもなっていました。ニューギニアでは食うに困って戦友を殺して肉を食べていたわけですから、その程度のことは追い込まれた人間はしてしまうのではないでしょうかね。別に当たり前のことですけどね。
大和は燃料はちゃんと往復分積んではいましたが、制空権のない中沖縄まで行き着けるわけがなく、乗組員の中でも出向前日の晩「いくらなんでも無謀な出撃であまりにも無意味」だとか「このような作戦しか出せないとは呆れる」のような意見が噴出していたことが書いてあってそれでも結局「俺たちが頑張って捨て石になって本土の人間を助けたい」という理屈でみんな黙ってしまったとある、そんな悲壮な、そして命知らずの人間でも大和が沈んで生き残るチャンスが生まれたら戦友を犠牲にすることをいとわない。それが人間なわけだから、そういう状態に追い込まないような世界にしないといけませんね。
また阪本誠一の「あゝ戦艦大和」は漫画なんですが、異様な迫力に満ちた作品で、注目すべきは米軍の雷撃機が大和を横倒しにしようとして左舷ばかりに魚雷を集中させたために艦は大きく左に傾き、戦闘能力も削がれてしまうので、右舷の注水してバランスを保つ話なんです。艦内アナウンスで作業員は直ちに退避せよとの命令が下るのだが、なぜか注水は全員退避する前に始まっていて、水面はどんどん上がってきていて、上の甲板のハッチまで迫ってきていて上官から「もう退避はまたなくていいからハッチを閉めろ❗️」と言われてハッチの外まで腕が伸びてまさに上がろうとしているのを無理やり閉めるシーンとなります。
阪本は何を根拠に描いたのわからないんですが、吉田満の描写は問題視されたのに、よく似たこっちはお咎めなしで不思議な感じがしました。
今日はよう晴れていて春めいた陽気です。私の住んでいるところは寝屋川の自然堤防上にできた土地ですぐ前に細い道があり、その南側は断崖のように落ち込んでいます。そのまま家を建ててもいいわけで古くからのお宅は玄関は崖の反対側に置いて、崖の方には蔵や倉庫を設置しておられました。中には手間がかかるんですが、ダンプを入れて崖の方に土盛りをしてかさ上げして道とツライチにされているお宅も散見します。
先日NHKで「朝鮮戦争秘録」というドキュメンタリーをやっていて朝鮮戦争をそそのかしたのはスターリンであることや、その背景にはついにソ連が核実験に成功してアメリカと対等にやりあえる自信がついたことなどが取り上げられていました。
なるほどなあと思いましたが、韓国も北朝鮮もこの戦争での日本の役割をカードとして使わないのは不思議ですね。日本は国連軍つまりはアメリカ軍の手先となって上陸作戦にも何千人の規模で参戦し、上陸用舟艇の操縦などの重要任務を担いましたし、日本全国の基地からは爆撃機が連日朝鮮全土に無差別爆撃を繰り広げて無辜の大衆を殺戮しました。もちろん朝鮮特需と称して戦車から砲弾、生活物資まで作りまくって売りまくり、高度成長の基盤を築きました。
韓国は国連軍側だったのでつまり日本と同じなので問題にはしづらいのかもしれないが、北朝鮮はカードとして十分使えるように思える、「日本はアメリカの手先となって朝鮮全土を戦場にした300万人を殺した」てな感じですな。今のところは使ってないようだが、将来的には切ってくるのではなかろうか。
日本側でも満洲事変の責任を韓国や北朝鮮に問うこともできるのではないか。確かに満洲事変は石原莞爾が企んだわけですが、シナとの国境に隣接する朝鮮北部で、朝鮮人とシナ人が国境を挟んで武力衝突を繰り返していたことも事実で、要するに朝鮮人としては満洲に侵略して土地を分捕りたいと思っていたわけで、石原莞爾はそれに引きづられていたわけです。満洲事変を引き起こした一因としてこの朝鮮人の侵略性を問うことは十分できると思います。
また呉智英が言うように、元寇は元がやったこととはいえ、攻め寄せてきた連中の大半は朝鮮人なわけで明らかな侵略であり、ために鎌倉幕府は滅亡したわけだからその責任をとう必要はあるようなないような気もする。天皇家自体も元々朝鮮から来たわけだから明らかな侵略者だともいえるわけだから、その侵略責任を韓国や北朝鮮に問うこともできなくはないような、できないような気がするなあ。
今朝は春雨がそぼ降り、やや肌寒い感じですが、氷雨ではないわけで濡れて行こうかとは思わないものの、不快ではありません。
このところよう思うのは1970年代の大阪市の小学校の学校格差のことです。児童の学力差とかいうことではなく、学校施設の違いです。私は大阪市の住吉区に生まれて当初清水ヶ丘小学校に通っていましたが、鉄筋の三階建ての校舎が広いグランドを囲むように立っていて、講堂もプールの横にあってしっかりした建築でした。トイレもきちんと男女別になっていて今と取り立てて違いはない感じでした。
ところが四年生からは安立小学校に転校となり、驚いたのはまずトイレで男女共用で、向かって右側に男用の小用があるんですが、間仕切りも何もなく一段高いところに上がると、目の前にはタイル貼りの壁がそびえそこめがけて用をたすんです。後で水を流すなどということはありませんから非常に臭い。こういうトイレは実は甲子園球場には長らく残っていて、2003年の優勝を目前にした三塁側アルプスの場外トイレはそれで、一応タイルの壁に真横に水道のパイプが通してあって水は流れるようにはなってはいましたがね。
女子便は左手にあって一応木の扉で個室風になっていました。私は子供ながらに「なんでばばだけはあんな臭い部屋ん中ですんねやろ、おなごはいつも部屋に入ってご苦労なこっちゃな」と思っていました。というのも汲み取りなもんだから臭気がこもって大変だったからです。このはばかりさんのすぐ隣に4年の教室棟があって木造で一階が講堂になっていました。二階が教室で真ん中に木を張り合わせたベコベコいう廊下があって両側に教室が並んでいてやかましいことこの上ない。さらに教室棟の横にはニワトリ小屋、ウサギ小屋があり、児童が当番で世話をするのだが、まあいい加減な手抜きの掃除だから汚い、臭い、おまけに鍵をかけ忘れたりするもんだから、夜中にイタチが侵入してニワトリを食い殺してしまい朝来たら死骸が転がっていたことがありました。
低学年はあんまりいい環境に置かないという価値観があったような気がしますね。なんせ5年や6年はプールの横の鉄筋の校舎がわり当ててありましたし、給食の調理棟もほど近かったからです。低学年をないがしろにするのは実は安立小学校だけではなく、清水ヶ丘小学校でも同じで、6年の教室の掃除は1年がやっていました。まあ先輩、後輩の関係からしたら当然とも言えます。ただバカな1年に掃除の仕方を教える方が面倒だったろうなとは思います。
それにしても安立小学校と清水ヶ丘小学校の格差はどこから生じたものなのか、未だに不思議です。明治のご時世なら小学校の建築費はそこに通う父兄が出資するといえこともあって、金持ちがたくさんいた船場のなどはエスカレーターが設置されていたり、遊戯室があったりとなかなかのものだったようですが、すでに戦後30年をけみしようかという時代ですからね。