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古本屋日誌
昨日はよう晴れていて嫁と大阪城公園駅周辺にできたというショッピングモールを見がてら、天満橋から歩いて大手口より大阪城に行きました。
国民会館、府庁と過ぎて外人客の多さはいつものことですが外堀のところにローソンができていて、いつもの青い看板ではなく京都にあるような一応景観に配慮した白い看板を上げていました。1200円出せば重要文化財の千貫櫓など3棟に加えて天守閣にも上れる券を西の丸庭園前で販売していました、なんでも土日限定なんだそうだ。西の丸庭園は今日、3月23日から花見🌸シーズンで300円で入園できるのだが、まだ蕾は固い。
西の丸庭園入口前には本丸の馬出しに続く門の跡があって、巨大な石が積んであるのだが、その石垣に直接接続して煉瓦積みの壁が延々と続いている。もちろん有名な造兵工廠の煉瓦塀で明治時代のものだが、花崗岩の巨岩の横に直接煉瓦塀だし、塀の下部には小さな石垣が積んでありいずれも違和感がある。こういう石垣の上にじかに煉瓦を積む手法は明治の流行りで、京都国立博物館も同様だ。
桜門の前、豊国神社の横にあったたこ焼き屋は、例の巨額脱税で「たこ焼きを焼くのに精一杯で税金のことまで頭が回らなかった」と言っていた店なんだが、今日見たら建物が無くなっていた。
桜門を入り衆目を驚かせる巨岩が現れるが風化も進み、最上部は新しい岩で修復してある。さてかつての第4師団本部、1931年竣工の建物だが「ミライザ」と称する商業施設になっていて、地下はイリュージョンが観れるシアター、一階は大阪土産や忍者グッズを売る店、喫茶店、二階は食堂、三階は結婚式場となっていた。一階のショップは完全に外人客向けでキティちゃんやリラックマなどのキャラクター商品、模造刀、大和魂とか大阪と大書したTシャツ、新選組グッズなどを売っていて行き来する店員は黒ずくめの忍者スタイルだった。
こういう下品な土産物屋しか作れないところに大阪という街の底の浅さが露呈している。キティちゃんなどのキャラクター商品は全国どこの土産物屋でも扱っているもので、大阪らしさは何もない。忍者グッズにしても伊賀上野や金沢などのパクリでしかなく、だいたいが大阪とはなんの関係もない。土産物屋の名前も「本陣」なんだからわけがわからない。
天守閣の南側、紀州御殿の横にあったたこ焼き屋、ソフトクリーム屋、弁当屋などは周りに白いシートを巡らして二階建ての建物ごと解体作業中だった。変わって「ミライザ」の前に仮設テントを立ててたこ焼きやら弁当を売っていた。たこ焼きは500円で弁当は800円。弁当は取り立ててどうということもないような代物で観光地料金そのものだと思った。これも京都のパクリみたいなもんだなあ。
山里曲輪から極楽橋へ向かったが、水をたたえた堀には金色の御座船が行き交っていて水上から石垣や天守閣を観れるようになっていて、びっくりしたが料金は1500円で、これまたびっくりした。青屋門を抜けると夜店の屋台が軒を連ね、唐揚げやらアイスクリームやらあれこれ商っており、大阪造兵工廠本館のあった今は大阪城ホールの貧相な石垣を抜けて寝屋川とホテルニューオータニが見える噴水エリアに着くと向かって右手に大阪城公園駅まで続くお目当のショップ群が現れパンケーキ屋が二軒並んでいてともに行列ができていた。
さて、このように大阪城は物凄い数の外人客で溢れているので、ここはアレックスカーの提言に従い、入城料を大幅に値上げすべきだろう。今のように千貫櫓、焰硝蔵に天守閣で1200円とか花見もできて、黄金の茶室も拝める西の丸庭園が300円とかいうような破格値ではなく、外堀からなかに入るので3000円、天守閣はさらに5000円にするべきだ。西の丸庭園は1万は取るべきだ。その収益で石垣の修復や焼失した櫓や塀を元どおりにするのか至当だろう。当然ながら山里曲輪から極楽橋に降りていく通路をアスファルトで固めるなどという馬鹿げた処置は無しにしてきちんとした風情のある道に戻してもらいたい。
今朝も寒の戻りで寒い。
先日NHKで阪神競馬場の外周に沿って植えてあるたくさんの桜が桜花賞開催時に満開となっていることが多く、競馬場の方で開花の時期をなんらかの方法でコントロールしているのではないかとの噂を検証する内容だった。
けいの関係者の話として「以前さくらの生え際を氷で冷やして開花時期を遅らせようとしたことがあったがうまいこといかなかった」ということでそれ以降は何か特別なことはしていないという。それではひょっとしてあの有名な六甲おろし、つまり冬に六甲山から吹き降ろしてくる冷たい風の影響でうまいこと開花時期が調整されるのではないかと考えて調べてみたと番組はすすむ。
すると競馬場の北側には甲山と六甲の連山があってその二つの山の間が谷になっていて、ちょうど北西の方角から冷たい風が吹いてくることがわかったとのことだ。この気温の低い風の影響で、ぬくい年も桜の開花時期がずれ込んで4月10日前後に満開となるのではないかということですね。
つまり六甲おろしなんかなんの関係もなかったということです。山と山の間の平地から吹いてくる風なんですからね。というよりもそもそも六甲おろしなどというものはない。六甲山から冬に冷たい風など吹いて来ないし、その言葉自体も例の阪神タイガースの歌以外では聞いたこともない。京都の「比叡おろし」「花くたおろし」は有名で日常的にも使われている言葉なんですけどね。
「六甲おろしに颯爽と〜〜〜」てな感じでうとてる人いますけど、なんちゃらおろしはそもそも冬真っ盛りの風物でプロ野球シーズンでもないし、さらに六甲おろし自体がありもしないものなわけだから、チームが最下位となるのも無理からぬことやね。
今朝はかなりぬくかったが、夕まぐれ気温も下がり風も吹き始めて花冷えです。
クリガンリードの「サピエンス異変」が飛鳥新社かは出ました。ジャングルで長年生活し、狩猟採集生活で長距離の移動をもっぱらにしていた人類は骨密度も非常に高く、尻も座るようにはできておらず、蹲踞の姿勢が重心も安定して都合がよくまた歯も奥に行くほど大きく硬いものをすりつぶせるように特化していた。
しかし農耕開始以来の定住生活で先に記した特徴が今度は反対に短所となってわれわれを苦しめているとの内容でした。
確かに骨密度が高く、がっしりした骨格では力を持て余してケンカぱゃくなりそうだし、パソコン業務で長時間座っているとおいども痛くなるし、腰もだるくなります。それにしても猿はあんなに毛がふさふさなのに、われわれは全身の毛を喪失してしまっています。いくら服や毛皮を身につけているとはいえ、冬の寒さは裸の人類にはきついし、獣から身を守ったり、強烈な太陽光線を避けるためには毛があった方がいいに決まっています。だのに禿げている、毛はわずかに頭にあるだけとは面妖です。これはやはり人類は水中生活が長かったからではないのか?長い距離を泳ぐためには猿のような長毛は不要で、つんつるてんの方が合理的です。
でも頭の毛はなんであるのかなあ?これも無くなって完全にズンベラボンの方が泳ぎやすそうだなあ。
今朝は梅雨時を思わせるようなもあーとした大気が身体にまとわりついてくる感じでした。
彼岸の中日でお墓まいりなどをする人が見られますね。肥田晧三の「再見 なにわ文化」が和泉書院から出ました。読売新聞に連載中のエッセーをまとめたもので読売新聞社としては売れないと踏んだわけでしょう
。私は肥田は書誌学者かなという印象が強く、藤澤桓夫の詳細な書誌目録なんかには感心しました。今回初めて彼のエッセーを読んで、なかなかうまく書いてるやん、もっといくらでも書いてもらいたいと思いました。例えば織田作之助の葬式に高津中学の授業を休んで勝手に一織田作ファンとして参列した話があって祭壇近くに林芙美子、太宰治、坂口安吾からの花が飾ってあり、途中で高津中学の新聞部の三名が会葬に来たこと、悼辞を読んだのはモーニング姿の藤澤桓夫だったことなどが淡々と綴ってある。
そうなのか、織田作の葬儀には太宰治も坂口安吾も来てないのか、楞厳寺は戦災で本堂が焼けていて仮堂だったとある、わけのわからない中学の新聞部が目立つくらいだから何か寂しさが漂っている。寺の葬式でモーニング姿て変な感じがするなあ。また藤澤の紹介で織田作はデビューしたとはいえ、藤澤の作品は文学的に高いものではないし、織田作としては不本意なものではなかったかなあ。
先週の「週刊文春」の「私の読書日記」で立花隆が新しく出た中公新書の「信長公記」に触れて本能寺の変を引き起こした光秀の怒りは荒木村重の妻女らの処刑にあったのではないかと書いている。
それで早速現代語訳の「信長公記」を見てみたら12月の13日に尼崎の七松で500人にもなろうかという縁者を処刑し、さらに16日には京都の六条河原で村重の妻たしなどを処刑とあって、たしはたくさんの辞世の歌を残しそれを収録するとともに「たしは評判の美女」であったことや、これほどの処刑は歴史上初めてであったともしるしてあった。
なるほど光秀に関しては村重方の荒木五郎右衛門というものが自分の命と引き換えに妻は助けて欲しいと光秀に嘆願したが、どうしても聞き入れられず、夫婦共々処刑されたとある。光秀は信長にとりついであれこれ尽力したのだろうが顧みられることもなかった旨読み取れる。光秀の嫡男の嫁が確か村重の娘だったこともあり二人はかなり親しかったようだから、信長のこのような残虐な仕打ちは深く心に刻まれたろうし、何より自分の尽力をまるで顧みない態度は不快だったろう。
侍はヤクザの集団だから完璧にアウトローなわけで、何ものにも縛られることはなくわが道を行くわけです。信長にとってみれば腹心の部下に裏切られたことで大いに体面を汚されているし、城を開け渡せば女子供は助けてやるとの提案も村重は拒絶したわけだから温情も通じなかったということで、侍の一分がすたるという価値観だろう。そんなに女子供はを殺したら怨みを買うとか、人口が減るだろうとか、そこまでの人数をやらなくても効果はあるだろうとかいう合理的な発想はなく、体面や仁義が第一とされたわけだ。