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古本屋日誌
2019-03-20 12:54:00
先週の「週刊文春」の「私の読書日記」で立花隆が新しく出た中公新書の「信長公記」に触れて本能寺の変を引き起こした光秀の怒りは荒木村重の妻女らの処刑にあったのではないかと書いている。
それで早速現代語訳の「信長公記」を見てみたら12月の13日に尼崎の七松で500人にもなろうかという縁者を処刑し、さらに16日には京都の六条河原で村重の妻たしなどを処刑とあって、たしはたくさんの辞世の歌を残しそれを収録するとともに「たしは評判の美女」であったことや、これほどの処刑は歴史上初めてであったともしるしてあった。
なるほど光秀に関しては村重方の荒木五郎右衛門というものが自分の命と引き換えに妻は助けて欲しいと光秀に嘆願したが、どうしても聞き入れられず、夫婦共々処刑されたとある。光秀は信長にとりついであれこれ尽力したのだろうが顧みられることもなかった旨読み取れる。光秀の嫡男の嫁が確か村重の娘だったこともあり二人はかなり親しかったようだから、信長のこのような残虐な仕打ちは深く心に刻まれたろうし、何より自分の尽力をまるで顧みない態度は不快だったろう。
侍はヤクザの集団だから完璧にアウトローなわけで、何ものにも縛られることはなくわが道を行くわけです。信長にとってみれば腹心の部下に裏切られたことで大いに体面を汚されているし、城を開け渡せば女子供は助けてやるとの提案も村重は拒絶したわけだから温情も通じなかったということで、侍の一分がすたるという価値観だろう。そんなに女子供はを殺したら怨みを買うとか、人口が減るだろうとか、そこまでの人数をやらなくても効果はあるだろうとかいう合理的な発想はなく、体面や仁義が第一とされたわけだ。