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古本屋日誌
「時を司る」と称する『まんだらけ』のグランドカオスに行ってみた。
ここは堺筋に面する五階まである細長いビルだ。
マンガからソフビ、おもちゃ、看板、写真集や画集など幅広い品揃えだ。
活字本は文芸書、絵本、占い本、ミステリー、アーティスト本、オカルト本、文庫本は少数だが岩波文庫、講談社学術文庫、ちくま文庫、創元推理文庫などがあった。
なかなか面白い品揃えなんだが、活字本もビニールがかけられていて、中身が確認できないものが多い。
もちろん立ち読みをさせたくないためだが、買おうとする側からしたら困りものだ。
目次をチェックも出来ないし、小口のコンディションがわからない。
確かに立ち読みされてしまうと、汚れたり、破損したりはあるかもしれないが、マンガではないわけだから、ずっと長時間立ち読みするとは思えないけどなあ。
このグランドカオスビルはうなぎの寝床のように間口は狭くて奥行が長い構造になっている。聳える本棚と本棚な距離は狭くて、一人が横向きで通れる幅しかない。
ここで立ち読みされたら、客同士身動きが取れなくなってしまうとの配慮もあるのかもしれない。
でもそうなればそうなったで、逆に立ち読みを控えて、通路を譲り合うものだと思うけどね。
だいぶ前にまんだらけの梅田店に出向いた際、当時社長だった古川益三が店内にいて、「立ち読みはやめてください‼️」
「近くにはいくらもマンガ喫茶がありますから」と客に注意しているのに出くわした。
その流れからグランドカオスでも本までもラッピングすることになっているのだろう。
東野圭吾が1986年に乱歩賞を受賞した『放課後』の古書価が高騰している。
初版、帯付きはなかなか目にしないのだが、5000円以上するだろう。
東野は『容疑者Xの献身』で直木賞を受賞したが、この小説はつまらない。
別れた夫の暴力に耐えかねて、嫁と娘が男を殺害するのだが、そこに隣に住んでいる数学教師がやってきて、アリバイ工作をするわけだ。
でも男は凶悪で、女を殺そうとしていたわけだから、普通に考えれば正当防衛が成り立つはずだろう。
だからすぐに警察に連絡すればいいものを、無理から隠蔽しようとするストーリーは問題だ。
また身代わりにホームレスを殺害して死体を用意するなど、極めて不自然だし、不愉快な展開だ。
しかし東野は例えば『白夜行』(さらにその続きの『幻夜』もいい)などの傑作を書いているわけだから、なんとかして直木賞をとらせてやりたい気持ちが選考委員に働いたのだろう。
『白夜行』は900ページに及ぶ長編で、20年近い年月に発生した様々な事件を複雑に絡ませながら組み立てており、構成力が素晴らしい。
がんぜない小学生の男の子が自分の父親を刺し殺す展開も、無理がなくよく考えられていて、心打たれた。
経済学者の森永卓郎が遺著だとしている『書いてはいけない』を読んでみた。
森永は赤字国債の発行残高が積み上がって財政危機になっているから緊縮財政をしなければならないという財務省を前から批判してきた。
今回の本にもそのネタはあるのだが、主に森永が主張しているのは、85年の日航ジャンボ機墜落事故のことだ。
彼によれば自衛隊が演習で発射した飛行体が尾翼に命中して、操縦不能になったというのだ。
それでもなんとか高度を上げて飛行を続けていたが、さらに自衛隊機がミサイルを発射して、これがエンジンに命中して墜落したのだというのだ。自衛隊のミスを隠蔽するためなんだそうだ。
森永はさらに、日米半導体交渉で日本が不利な条件を受け入れたのは、アメリカが真実を暴露するのを恐れたからなんだともいう。
容易には信じられない話だけどね。
確かに自衛隊が原因で民間機に損害を与えたとなれば、大きな問題ではあろうが、1970年代初頭に雫石で自衛隊機と民間機が衝突して両方とも墜落して160人以上が死んだ事故もあったよね。
その時は隠蔽工作なんかもなかったわけだから、森永の主張はおいそれとは信じられないな。
今日から東京で「国際稀覯本フェア」が開かれている。
参加している古本屋の数は、東京から11、京都が5、大阪は3、オーストラリアが2、イギリスも2、北海道、神奈川、アメリカ、ドイツ、オーストリアがそれぞれ1。
オールカラーの目録が出ていて、それを見ると織田信長の朱印状が650万、豊臣秀吉の朱印状は250万、長宗我部元親の書状が300万など。
やはり信長さまの人気は大変なものなんだなあ。
版画は、川瀬巴水の昭和5年の「雨乃大宮」が165000円、笠松紫浪の昭和13年の「夜雨不忍池」が99000円となっている。
こういった類のものは、古本とか古書といったものではなく、骨董品だな。
価値があるような気もするけど、よくわからない。
川瀬巴水の版画とかは欲しい気もするけど、相当な金を積んでそれなりの枚数を手に入れたとしても、それらを十分に鑑賞するには、広い和室が必要だろう。
また照明も工夫が必要だし、それを眺めるために椅子なんかもちゃんとしたものを用意しなければならないだろうし、そんな余裕などあるわけがない。
ドイツの政治学者カールシュミットの著作はちくま学芸文庫や岩波文庫にも収録されていて、手軽に読める。
ルソーの一般意志、ホッブスの万人の万人に対する戦い、さらにマルクスやレーニンのプロレタリア独裁の理屈などを踏まえた上で、国家の主権を論じる彼の理論は今もなお学ぶべきものがある。
シュミットは主権は緊急事態での決断を下すもののことだという。
福島第一原発の事故では、全電源が喪失して1号機がメルトダウンする危機に直面し、直ちに電源車を調達しなければならなくなった時、これが緊急事態だ。
しかし原発に通じる道路はどこも避難民や、何やらでごった返していて、緊急車両の通行はままならず、もたもたしている間に1号機はメルトダウンしてしまった。
独裁国家であれば、ただちに戒厳令を布告して、主要道路の通行を全面禁止し、それでも従わない大衆は躊躇いなく射殺するだろう。
また3号機で格納容器の圧力が高まり、破壊を防ぐために消防車からの給水を実施したのだが、予想した通りに水が入らず、水位が回復せず、1号機のように水素爆発が発生する危険が高まったとして、吉田所長は外にいる作業員を引き上げさせた。
「身近な人を守ってはじめて周辺住民の命も守れる」と考えたのだそうだ。
でもそれは通常の場合であって、緊急事態には成り立たない。
己の命をを捨てて事態を収束させようとする人がいて、はじめて、住民は助かるのだ。
独裁国家ならば、当然命を捨てて作業を続行するように求め、従わなければ殺すだろう。
しかしわが国では、金儲けのために仕事をしている労働者に「みんなのために死んでくれ」と要求することは、どんな理屈をこねても認められる話ではない。
我が国の場合、シュミットの言う主権者はごく普通の住民ということになる。
その主権者の意思はとりあえず命に危険が及ばない範囲で、もしくは給料の範囲内で作業をするということだ。
これは極めて真っ当な話で、確かに究極の責任は、誰もが負わないということだから、運が悪かったら東日本や東京が壊滅して、人が住めなくなる可能性を孕んでいる。
しかしそれもこみで主権者は判断していると考えるべきだろう。
また主権者の判断は良い方向に出る場合もたくさんある。
例えば我が国は戦争はすることができなかろう。命を張るという発想がそもそもないからだ。
これは実に素晴らしいことだし、人類が進歩している証拠でもある。