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古本屋日誌
金曜日は、出町柳の臨川書店の古書市があった。ここもだいたい毎月小規模な古本市をやるのだ。
雪混じりで、寒いのだが、朝の9時半に、臨川書店本店のシャッターと鉄扉が開けられて、キャスター付きのワゴンに入った本を職員が、ガラガラガラと引き出す。
本社屋は今出川通に面していて、ワゴンや机は狭い歩道に並べられる。
これは伝統的な古本屋の販売方法で、大阪の古本屋も以前はそうしていた。
さて、毎回20人くらいのおじさんや文学部の学生と思しき若いにいちゃんが本を見に来ている。
臨川書店は国文学の専門書をあれこれ出版していて、徳川時代の終わりに上梓された『摂津名所図会大成』の復刻も出している。
だから、扱う古本もそういう本なんだが、文庫や新書も少しワゴンに出している。
俺が思うには、京大文学部の教員と深い繋がりがあって、彼らの本を出版してやり、また不要な蔵書を引き取っているのだろう。
売る方も、大した利益ももたらさない専門書を出してくださっているという引け目があるので、本の買取に際して「この査定は安すぎるやろ。もっとあんばいしたってや」みたいなことは言わないだろうから、持ちつ持たれつだろうよ。
藤澤桓夫という小説家がいて、大阪高校から東大に入り、文士になったが生涯大阪に住んだ。
先日、新潮文庫に昭和15年に収録された『大阪』を読んでみた。
話は大大阪時代で、三角関係を経て結ばれるというだけのもので、感心するようなものではなかった。
ストーリーも極めてご都合主義オンパレードで、よくこれで本にしたものだと思わざるを得なかった。
ただ昭和の初めの大阪の風俗で学ぶ点があったのはよかった。
船場に居住する大店は大気汚染に耐えきれなくなって、岡本や芦屋などに本宅を移したことはよく知られている。
彼らは戦前から東京志向が強く、井上章一が指摘しているように、そのモダニズムなるものは東京のモノマネだ。
また神戸一中や関学、灘などの進学校は三高ではなく、一高志望だったことも知られている。
この小説では「まあ!あたくしなんぞもう時代遅れで、皆様の前へ出していただく柄ではございませんわ」という話を帝塚山の有閑夫人が話す。
藤澤はこの会話を示して、彼ら、彼女らは客に対しては大阪弁を使わないというのだ。
今の大阪の大衆は、東京にそもそも対抗心を持っていないし、素晴らしくアーバナイズされたスポットとして憧れを抱いている。
パッとしない大阪を尻目に東京に憧れる自分の立ち位置を快いものと考えているわけだ。
昭和の大大阪時代にも全く同じような構図が、少なくともブルジョアジーにはあったことが確認できる。
水曜日から三条通の京都文化博物館ロビーで小規模な古本市。
赤尾照文堂、京都スターブックス、ぼあい書房、小亀屋、石川古本店などが出品している。
レジでは本に付けてある値札を外してから、合算していた。
大阪の古本市では値札を外すだけでなく、どこの古本屋の売上なのかも、いちいち、いちいち確認してレジを打つので時間がかかるかかりすぎる。やはり京都のやり方の方が客にとっては便利であることは言うまでもない。
折から昨日は春分の日で、天気は強い風と雨なんだが、京都はたくさんの観光客で賑わっていて、この古本市にも外国人の姿がたくさん見られた。
浮世絵版画や展覧会の図録、古地図などもたくさん出品されていて、彼らの耳目を引いている。
また、博物館では嵐山近くの松尾大社の特別展が開かれていて、これも海外の人にとっては興味深そうだ。
さらに、古本市のすぐ横のブースではミュージアムショップがオープンして京都に関する本や美術書、小物、雑貨を扱っている。
つまりここに出向いたらいろんな土産物がいっぺんに揃うというわけなのだ。
秦郁彦がPHPから新著『日本近代史12の謎を解く』を出した。
90を超えてなお、立派な本を出し続けられる精神的な強靭さは素晴らしい。
その中で幕末の動乱を論じたくだりがある。
秦郁彦によれば内戦では勝者は敗者を撫で斬り、つまり皆殺しにするケースが多い。(敗者の再起を封じるため)
だが戊辰戦争では、賊軍と官軍の死者は各4000人で、アメリカの南北戦争の62万人に比べて格段に少ない。
両軍は国際情勢を睨みながら、民衆を巻き込まないように自制しつつ戦った。
そのわけは、上級武士は、お目見えも叶わない下級武士や下級公卿の暴走と本気で対決し、争う気分を持てなかったからだ、というのだ。
なるほど、確かに鳥羽伏見の戦いなど、幕軍は敵の3倍の15000の兵力に加えて、最新の銃器で武装していたから、優位に立っていたのに、あっけなく敗退してしまった。
中公新書の『鳥羽伏見の戦い』で野口武彦が論じていたが、幕軍が攻め上った京街道は幅員がなく、数の優位性を活かすことができない。
通常なら西国街道、京街道、奈良街道と軍勢を3つに分けて攻めるのが筋なのに、なぜかそうしなかったとある。
これについて、これまでは、幕軍は士気が高くなく、それは追われる立場で、過去の遺物みたいな幕藩体制を支える気にはならなかったからだと説明される。
しかし秦はそうではなく、薩摩や長州の下賎な連中と本気でやり合う気にならなかったからだというのだ。
そういえば先の野口の本でも鳥羽伏見の戦いの火蓋は先に進もうとする幕軍を薩長が狙撃したことから始まったとある。
幕軍は目の前に銃で武装した敵兵がいるのを、重々承知で堂々と進んでいく。
つまり大君さまのご威光の前には薩摩や長州の下級侍など何ほどのものがあろうかと侮っていたからだと解釈できよう。
そして注目すべきは双方が平坦で見通しのきくエリアでやり合ったにもかかわらず、戦死者が非常に少ないことだ。
幕軍は「こんな下賤な連中とまともにやりあえるか‼️」と考えてすぐに下がったし、薩長も雲の上のような存在である幕軍の侍たちには遠慮があったということだろう。
ああいうバカと関わり合いになりたくない、勝手にやりたいならしたらいいという考えは、れっきとした差別でもあるし、また言い方を変えれば、侍の矜持、忍従ともいえよう。
そういえば、インドの独立につながったセポイの乱も、カースト制に基づく差別を保ちたい感情が元になっていた。
ともに、差別に意味があるといえる現象なのだ。
朝日新聞に先日政治学者の原武史が「象徴天皇制を問い直す」と題したインタビュー記事を書いている。
ーーー天皇制は「身分制度の飛び地」とも評されます。一方で、国民国家を成立させ、民主制を補完する機能も担ってきたとして評価する識者もいます。
という問いかけに対して原は
「それは近代天皇制を単線的に捉えた、不正確な認識だと思います。
(中略)後に天皇制国家と呼ばれるものは、国家神道の整備と大規模な行幸、学校教育によって、紆余曲折を経ながら形成されたものです」という。
徳川時代は侍とそのほかの大衆との間に身分差があった。
明治になって四民平等で、それらは解消されたが、天皇だけは特別な身分であり、これは人間の平等を基本にする民主主義に反するものではないかという指摘がある。
また反面、帝国臣民は天皇の赤子であって、区別はないとの考えから、部落差別などへの防波堤となったことも事実だ。
記者はこの点を、原に聞いているのだが、彼の答えははぐらかすもので、全然答えになってない。
確かに原は象徴天皇制は、存続を図るかやめにするか、きちんと論議する段階にきているとは言っているものの、歯切れがよくないな。