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古本屋日誌
今日は嫁と京阪電車の石清水八幡宮駅に出向いて、三川合流地点にある背割堤で花見をした。
背割堤は木津川と宇治川の間に作ってあって、10メートルくらいの高さがある上、1.5キロくらい続いていて、その上に250本くらいの桜(ほぼ全て染井吉野)が植えられている。
肝心の桜は5分咲きくらいで、客はさほど多くはないが、明日の土曜日からは露店も出るし、桜も満開を迎えそうで大変な人出になるだろう。
宇治川に三十石船を浮かべて20分程度のクルーズが行われていて、13時30分からのに参加してみた。
御幸橋から堤を少し下流に進んだ、宇治川の岸辺から乗船して、川の真ん中を下って背割堤の先端部まで行く。
背割堤には崩れるのを防ぐため茶色のテトラポットが岸辺にずらりと並べられているほか、水面から堤の桜が植えてある地面までの、10メートルくらいはある斜面には枯れた葦の群落や葉を落としたエノキなんかも見えている。
料金は2000円で、花も5分咲きでしかないし、どうかなと思ったが、70人くらい乗れる船はわれわれ2人だけしか客はおらず、貸切だったので値打ちがあった。
乗船中は解説のお姉さんがお話を聞かせてくださる。
なんでもこのクルーズは花見期間だけ、1時間に2便運行してるが、客足はずいぶん波があって、今日は多い便は50人くらい乗っていたという。
背割堤は昭和5年に作られて、三川合流地点の流路をなだらかにし、増水時の洪水を防ぐ狙いがあった。
1.4キロからある堤には松が植えられていたが、1978年に桜(ほぼ全てソメイヨシノだ)に植え替えられた。
その際堤の入り口には江戸彼岸、大阪寄りの堤の最南端には大島桜を植えた。この品種を掛け合わせて染井吉野が生まれたわけだ。
最南端から堤を下った淀川の河川敷には樹齢100年になる楠を移植し、例の日立の木のような、大きなブロッコリーのような存在感で聳え立っている。
右岸に見える石清水八幡宮と男山の解説では、男性が寝そべっている姿に見えることが地名の由来だと言う。
また、左岸遠くに見える天王山での天下分け目の合戦が秀吉軍4万対光秀軍1.5万だったことや、三日天下(実際は13日間だ)だったこと、山崎蒸留所の気候がスコットランドに似ていて、水も清洌であるため、蒸留所の開設に至ったなどの説明もあった。
なんでもこの三十石船は天満橋の八軒屋から枚方を経て伏見まで運行することがあるとも言っていた。
「江戸時代は上りはまる1日かかっていました、綱で引き上げていましたから」「また、おまるを持ち込んでいましたけど、今はそこにちゃんとトイレを備えています」という話もあった。
ただこの解説には問題もあって、徳川時代であっても、上りは引き綱などを使わずに航行できることもちゃんとあった。それは帆船で、追い風であれば問題なく淀川を遡れたのだ。
1960年代の大阪市住吉区の小学校は、地区によって格差があった。
俺は1967年に清水ヶ丘小学校に行き始めたのだが、校舎はほぼ全て鉄筋であり、講堂も天井が高い独立した建物だった。またグラウンドもきれいな四角で、桜の木がたくさん植えてある。
その後3年からは安立小学校に通うことになり、落差に驚いた。
これは本当は一年生から安立小学校に通わなければならないのに、住所を偽って越境入学をしていたわけなのだ。
安立小は、校舎の敷地が歪で、南海本線の住之江駅に通じる表通りには面しておらず、北側の長細い路地を抜けてようやく校地に辿り着く。
グラウンドも四角になっておらず、北の隅は横に長く西側に伸びる形だった。
また講堂は木造二階建てで、一階部分が講堂なんだが、背が低く窓は西と東にしかなく薄暗かった。
2階は3年生の教室が真ん中に廊下を配して振り分けで配置してあった。
最も驚いたのはトイレで、男女共用、男子用の小便は溝に向かって、一段高いタイルの段に上がってやるスタイルだった。年季も入っていて悪臭ふんぷんたるもので、清水ヶ丘のごく普通のトイレとは大違いだった。
溝に向かってやるスタイルは、2003年の甲子園球場にもあった。
もう20年以上になるが、それでも「ようこんな古臭いトイレを未だにつことるよなあ。ちゃんと改修せなあかんやろ」と思ったものだ。
2000年1月に起きた、中学受験の進学塾、日能研関西の過労死事件。
当時算数課の課長だった酒井の授業のことを考えている。
現在の日能研は生徒からアンケートを取っているのだが、この頃は行われていなかった。
その理由について噂として「生徒からの人気取りではなく、きちんとした学力をつけさせてほしいから」というのは聞いたことがある。
しかし酒井の場合50日以上も休みを取れていなかったわけで、俺が思うには高いレベルの授業や業務ができるとは到底思えないな。
酒井が亡くなって、勤務時間や、休日を調査したのだが、その当時の日能研関西はきちんとタイムカードで出退勤時間を管理しておらず、調べるのが大変だった。
本部に出勤すると判子をついて、勤務開始を示すだけで、何時間仕事をしたかが皆目わからないのだ。まあ完全なブラック企業だよな。
仮にも京都大学やら、大阪市立大学やら、同志社大学やらそれなりの学歴を持つ社員がいるのに、そういう非常識かつ、法令を遵守する気もない企業に愛想を尽かすとか、反抗する気概がなく、ズルズルと仕事を続けるというのは謎だな。
俺自身は予備校の仕事はずっと忙しかったのだが、1998年に大学時代の友人が新大阪に本屋をオープンさせる予定なので、一緒にやらないか❓と言われて、その気になったことがある。
酒井はその話を聞いて呆れたような顔をして「人間、そんな大儲けとか、社長になるとかじゃなく、コツコツやっていくのが正しいだろう」と呆れたように言う。
これには全く賛成できなかった。自分で金儲けした方が儲かるに決まっているからだ。
酒井は日能研関西に入る前は京都進学教室の社員で、近江八幡校、長浜校の教室長だった。
しかし、京進に入る前に、友人の東から「日能研に入らないか」と誘われていた。
酒井もその気になっていたのだが、東が「エスケー(酒井のあだ名)は日能研に入るに決まってる思てたわ」と言われて、腹をたてて、京進に入社したのだ。
東はこの発言を忘れているのだが、酒井本人は悔しかったのか、いつまでも覚えていて、俺にも話してきた。
だから、京進を人間関係のごちゃごちゃで辞めることになって、日能研に入社した時、相当な覚悟を持っていたことは間違いない。
東と酒井、俺は熊野寮に住んでいたので、そこにボックスを構えていた中核派の連中ともずいぶん付き合いがあった。
1998年の夏頃に中核派のKが俺のところにやってきて「実はな、ゲリラをやっていたメンバーを匿わないといけなくなったんだけど、そのアジトを用意することが難しいんや。お前の関係で社会的な立場がある人はおらんのか❓名前を貸してもらってマンションをレンタルしたいんや」というのだ。
こいつは東のところにも話を持っていったのだが、断られた。
東が言うには「迷惑だよな。間違いなく迷惑」。
全くその通りなのだが、酒井に東が迷惑そうにしていたと話したら「そうか、東さんはそう言うてたか」とニコニコしている。
酒井はもちろん中核派の連中にいい印象なんかぜんぜんもっていない。
でも東は時折「革命には前衛党(中核派のことらしい)が必要だと思う」などと意味不明な、いってみればシンパシーめいたことを言うので、酒井からしたら言ってることとやってることが違うだろうという思いがあったのだ。
さて、この顛末だが、「絶対バレることはない」とKはいうのだが、この連中のゆうことは全てデタラメだから、間違いなくバレると思った。
しかし昔のよしみから、同志社大学の知り合いの先生を紹介して、俺とそのバカのKと先生と3人で話をして、先生に周旋屋に行っていただいき、なんとかマンションの賃貸契約は出来たのだ。
ところが予想通り警察にバレてしまい、1998年の12月初旬に早朝からその先生のところに警察のガサが入った。
夕方に先生から俺のところに電話があって「警察が来たよ、もうあなたとは絶交だから」と言われた。
誠に申し訳ないことで平謝りするほかなかった。
もちろん数日して俺のところにも京都府警がやってきて家宅捜索が行われたことは言うまでもない。
今日、明日は、河原町御池のゼスト地下街で古本市が開催となる。
早速朝から行ってみた。地下なので雨風の影響もないし、暑さ寒さからも解放されて快適だ。
竹岡書店、小亀屋、ぼあい書房、アリバイブックス、空き瓶、石川古本店など京都の古本屋10店ほどが出店している。
10時半のオープンで、売り場の中央には映画のポスターや錦絵がたくさんあって魅力的だ。
また石川古本店は漫画専門店だけあって、手塚治虫のファンクラブの出した復刻本などをたくさん並べていて素晴らしい。
岩波文庫の『ユートピアだより』河出文庫の『パリの手記』全5巻、『天才と狂人の間』ちくま文庫の『南ヴェトナム戦争従軍記』『プルタルコス英雄伝』全3巻など、わりと珍しい本も並んでいた。
しかし岩波文庫の『近世風俗志』全5巻や大塩中斎の本、『人間知性論』全4巻、講談社学術文庫の『第二次大戦に勝者なし』全2巻、『今鏡』全3巻、『源氏物語湖月抄』全3巻、ちくま文庫の『現代民話考』全12巻、『東京ミキサー計画』、『悪魔の冷酒』全2巻、ちくま学芸文庫の『ボードレール批評』全4巻、『古事記注釈」全8巻いったかなり珍しい本はなかったな。
これらの本は確かに珍しいとはいえ、この時期であれば、店舗で扱っている古本屋はちゃんとある。それなのに、10店舗も出店していて見当たらないというのは不思議だな。
俺が思うには、実は持っているのだが、通販で販売した方が効率がいいので、古本市には持ってきていないのだろう。
古本屋にとってこの時期は仕入れた本がたくさんあるし、仕入れに資金を投入しているので、できうる限りたくさん売りたいところだ。
古本市に出店するのは魅力的な方法なのだが、問題は場所だろう。
屋外は賃料は安いけれど、雨の心配がある。
かといって屋内、地下街となると、高いし、展示スペースが十分に確保できない。
実際今回のゼストでも、一店あたりのスペースは平台2つくらいで、大した量を置けるわけではない。
それにお客さんも近場での人に限られるだろうから、先に挙げたような本を運び込んでも売れないおそれがある、と勝手に想像してみた。
2015年に青幻舎から出た『小林清親』という画集を入手した。
明治の錦絵を代表する清親だから、さまざまな風景画が収めてあるのだが、その中に三井越後屋の新社屋のものがある。
4階建で、屋根には鯱鉾が取り付けてあるのだ。何でも新社屋からは富士山も江戸城も望むことができるそうだ。身分制度が厳格だった徳川時代では商売人風情が天守閣を模したような社屋を建てることなど、考えようもないことだ。
それが明治になって四民平等の世の中で、商売人がお殿様の向こうを張ってお城を建てるのだから、時代を感じさせる。
これを仰ぎ見た人たちは自由を実感したのではなかろうか。
このことは井上章一先生が前に指摘していたことで、清親の絵を見て改めて実感させられた。
商売人の天守閣は東京だけの現象なのか、京都や大阪はどうだったのか知りたいものだ。