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古本屋日誌
ナショナルの松下幸之助が例の二股ソケットを発明したはものの、売れずに困って四天王寺に露天を出した話はこれまでもよく語られていた。
従来の話は折りから通りかかった水戸の三木啓次郎が
「それは何を売ってんのや❓と幸之助に話しかけてきた。
幸之助は
「これはえらい便利なもので絶対売れる思いますねやが、資金が苦しゅうて苦しゅうて弱っとりまんね」というようなやりとりがあったとする。
しかし北川央は四天王寺に露天を出していたところヤクザにからまれてしまった。そこへたまたま居合わせた三木啓次郎が助ける形になって付き合いが始まったとするのだ。
幸之助は二十歳を越していたし、縁日もそうなんだが寺社の香具師はヤクザが場割りをすることを知らないはずはない。
そこへ勝手に店を出したら揉めるのは当たり前だ。しかし一方で人情紙風船の今日とは違い、すごまれた後で事情も聞かれて、おそらくはまともな身なりすらしていなかったであろう幸之助は大いに同情してもらえたであろうことも間違いない。
大阪城の山里曲輪から北に出て内堀にかかる橋は「極楽橋」だ。
この橋はただ木を平行に並べて堀をスムーズに渡れるようにする通常の橋梁ではなく、橋の上に豪華絢爛な建物がある構造なのだ。
しかも豊臣時代に作られたこの橋は、竹生島に移築されて現存して国宝となっている。
さてこの橋が豪華絢爛な作りとなった原因を北川央は
「秀吉が城の北側にある弁天島を通る京街道を整備したため、大阪城の北側は京都から大阪に入る玄関口となったので、橋梁も豪華なものにしたのだろう」と予想している。
ただ今はもう亡くなったのだが南田辺にあった「ムラタ書店」の店主が別のことを言っていた。
「大阪城の極楽橋は石山合戦の戦死者を外へ運び出したとこやからそう名付けたんや。せやから内堀を越えて城の外に出る門は青屋門ゆうんや。これを青ものをあつこうてる店があったよってそないゆうんやゆうてる人おるけど、そんな本丸のすぐんとこに八百屋なんかあるわけないやろ。死んだ人間の青ざめた顔を表してるんや」
新潮新書の北川央「大坂城」には1931年に現在の天守閣が再建された経緯が書いてある。
当初大大阪誕生を祝うものとして、天守閣ができたという説明がされていた。
ところがこのところは市長の関一が昭和天皇の即位記念として天守閣の再建を陸軍に打診し、さすがに天皇絡みの案件では陸軍も袖には出来なかった。
つまり関は天皇を利用して天守閣再建を成し遂げたといわれるようになっている。
これに対して北川央は帝都復興院総裁を務めていた後藤新平が天守閣再建を提言し、後藤は関一とも直接会っているのでその後押しがあったんだとの説を唱えている。
なるほど真偽の程はともかく、これまでにはない考えを曲がりなりにも提示しているのは立派だよな。
新潮新書から北川央の「大坂城」が出た。
北川は大阪城天守閣の館長を務める。大阪城の本はいろいろ出ているがどれもおんなじようなことしか書いてなくて紙のムダと思っていたが、この本は長年の研究成果を惜しみなく盛り込んだ面白い本だ。
例の、堺の南宋寺にある徳川家康の墓については、以前からあった墓を改装するにあたっての碑文が載っている。
碑文によれば、大坂夏の陣の際家康は討ち取られて命を落として南宋寺に葬られたのだそうで、その正しさを当時の堺市長やナショナルの松下幸之助が保証するということだ。
堺市長であれ松下なんとかごときが保証したところで誰が信じるのかバカバカしい限りではある。
ただ面白いのはそこではない。
実はこの碑文を建てる時に金を出したのは松下幸之助なんだが、それを幸之助に持ちかけたのは水戸徳川家の家老の子孫である三木啓次郎という人物なのだ。
なんでも幸之助が二股ソケットを四天王寺境内で戸板を敷いて販売していたら、ヤクザに因縁つけられた。
そこへ偶然通りかかったのが三木啓次郎でヤクザを追い払って幸之助を助けた。恩義を感じた幸之助は三木の願いは何でも叶えたんだそうだ。
水戸の家老の筋とはいえ、ヤクザ相手に喧嘩を売るとはそもそも何者なんだろう。
それ以上に水戸の徳川家が偉大なる家康が大阪で殺されたんだと主張し、墓を改築し碑文まで建てる意図は何なんだろうか❓