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古本屋日誌
先日亡くなった石原慎太郎の本を探して欲しいとよく言われる。
芥川賞の「太陽の季節」は新潮文庫と角川文庫から出ているがともに品切れだ。
たしかに、このところブックオフでも石原慎太郎の本は見ないな。
弟の石原裕次郎のことを書いた「弟」はかなりヒットしてのちに幻冬社文庫に収録となったが、これも品切れで、若い世代は小説家としては記憶していない。
西村賢太が芥川賞を取った時に石原は受賞第一作を読んで対談をしていた。
本人を前にして石原の開口一番が
「あの受賞第一作は面白くない」だった。こういうあられもないことを平気で語るのが石原の魅力の一つなんだろう。
西村はこれで緊張がほぐれたのか貯金の額やら別れた女の事やらを淀みなく語って面白い対談なのだ。
うちは幸い石原慎太郎が好きだというお客さんがいて売ってくれるように頼みに行った。
特に欲しいのが新潮文庫の「太陽の季節」だ。これは初めは城所昌夫のカバーで白地に幾何学もようの面白いもので、その後池田満寿夫のやつに変わったのだ。
池田のはカバー中央に黄色く太陽が輝き、周りには紫雲が立ち込めるスタイルで、流通量はこれが一番多い。その後またカバーが変わった。
ファンはそのどれも持っていることは言うまでもないし、何冊も持っているものだ。
だから
「〇〇さん❗️たまには俺にも儲けさせてよ❗️その城所のやつと池田のやつはかなりあるでしょ、何冊かおくれんか❓」てな感じでお願いして3冊ばかり分けてもらいました。
それ以外には慎太郎が政治の世界に飛び込んで参議院選、環境庁長官てな人生を振り返った「国家なる幻影」上、下の帯付きも分けてもらいました。
昨日はお客さんから買い取ったたくさんの中公新書の値付けをして出品した。
先日住吉のお宅に伺って本棚を拝見するとものすごい量の中公新書が並んでいる。
「これはな、昭和30何年あたりの創刊の時から全部こうてるんや。」とのことで少し抜けはあるようだったが、スティールの白い本棚に上から下まで8段にわたって背が白く帯のかかった新書が、ずらりと並ぶのは壮観で、その本棚が7個ある。
不思議なのは全てカバーが外してあることで
「これはなんでカバー取ってはるんですか?帯はちゃんとあるのに、もったいないですな」と聞いてみたら
「カバーはな、このところのやつは取らんと残してあんねんけどな。カバー取った方がかさが少のなってようさん本棚に入るんやわ」てなことを言う。
言っている理屈はよくわからないな。カバーを外したところで大した薄くはならないだろうに。
「でもお客さん❗️やっぱりカバーは欲しいゆう人が多いからこのコンディションでは値段は出せませんで❗️」
「だいたいカバー外してたかて、薄なりませんで❗️本が可哀想やおもわはりませんか❗️」
と安くは買わせてもらいました。
量が多いので全て佐川にお願いして送ってもらうことにして、その段ボールが昨日の晩家に届いた。
梱包を解いて一冊ずつコンディションを記入しながらネットのサイトに出品していくのだが
「1刷です、カバーはありません、帯があります。」と判でついたような文面を400回くらい繰り返して実にくたびれた。
問題はネットでは売れない新書がかなりあることだ。
中公新書でもかなり面白くて古書価が高い本ももちろんある。でもロングセラーだったら、今では時代に合わなかったり、そもそもくだらない内容だったりして、通販に向かないものもたくさんある。
これをどうするかだよなあ。
店舗があれば店頭で100均にして売り捌くことは十分できるのだが、うちはそうはいかない。
ブックオフに取りに来てもらってある程度減らすか、そうかもう見切ってぜんぶほかしてしまうかだろうなあ。
新潮社から葉真中顕の「灼熱」が出た。
大東亜戦争の敗戦後、ブラジルの日本人移民20万の間で巻き起こった勝組と負組の争乱を描いたものだ。
これまで高木の「狂信」や前山隆の「移民の日本回帰運動」などで取り上げられてはきたがすでに絶版であまり知られていない。
本書では当初圧倒的だった勝組の狂乱ぶりがつぶさに描いてあって興味深い。
昭和20年の9月24日の午後3時にサンパウロに日本から勝利を祝う船団が到着するとの情報が日本人社会に流れて、当日はブラジル全土から日本人移民がサンパウロの埠頭に集まり大騒ぎとなった。
もちろんそんな船団が来ようよしもなく、虚しく時間が過ぎていく。
南国の太陽は容赦なく肌を焼き焦がし、喉をからからにしていく。
普通ならここで
「おかしいよな、なんで来ないんだ❗️俺を騙したな❗️❗️」となるところだ。
ところが「船は確かにこの沖合に停泊しているんだ。しかしやはり初めはここではなくてリオデジャネイロに出向いてブラジル政府に挨拶をする方がよかろうとなった」
てな新たな「情報」がまことしやかに伝えられて、あろうことかみなそれを信じてしまうのだ。
この辺りの心理のあやはいくら考えても不思議で、誰かに上手いこと解明して説明してもらいたいものだ。
先週の木曜日のお昼過ぎ、JR神戸線の快速で六甲道のお客さんのところに出かけた。
途中尼崎を出たところでスピードが緩くなり止まってしまった。
すぐに車掌の落ち着いたアナウンスがあって
「この先の踏切で非常を知らせる装置が作動しましたので、職員が確認している」とのことだった。
車内は空いていて2人がけのシートに1人ずつ腰掛けている状態で、特に文句を言う人もない。ただ、一号車と真ん中の車両にある手洗いに向かう杖をついた老人はいた。
その後2、3分おきにアナウンスが入る。
「踏切の棒が折れているとの連絡があって、その対処に当たっている」
つまり遮断機が降りてくるのに、無理に車が侵入して閉じ込められてしまい、やむなく棒を折って外に出たということのようだ。
強迫神経症の一種に閉所恐怖の症状がある。
航空機など、長時間一定の場所に閉じ込められる状況がストレスになり、心の安定が保てなくなるのだ。
電車でもしばらく止まらないような特急や急行では不安に駆られてうずくまったり、パニックに陥ったりするのだ。
谷崎潤一郎がそうだったし、かなり多くの人が罹患している。
そういう人は飛行機はもちろんのこと、特急にも急行にも乗れないから、遠隔地に向かう際も普通電車で出向くことになるという。
今回も一号車にあるトイレ方向に何回も行く人がいる。60がらみのじいさんや30くらいのリーマン風の女だ。
そんなんに何回もトイレに行く必要はないから、閉じ込められていないことを自分に納得させるための行動なのかもしれない。
その後進展はなく30分余り経過し、車内はそれでも静かなもので、時折かかってくる電話に
「今電車に閉じ込められてんねん」と答えるリーマンの声がするくらい。
やがて40分になろうとする頃に
「この先の踏切に車が侵入して立ち往生しているとの情報が入りました。今係員が対応しています」という。
棒が折れたのなら対処も容易だろうが、車の立ち往生ではさらに長くなるのではないかと私はあきらめましたよ。
旅行は無駄なことが多い。
ネットの情報や旅行雑誌、テレビのCMに踊らされて観光地に来てみたら、たくさんの人であふれているし、観光業者の方々もいつまでも続く客の波に食傷気味で「えー❗️まぁた来たんか❗️」てな顔つきだ。
これは観光業者を責めているのでは全くない。
いくら金を落としてくれるとはいえ、多すぎたら困るのは当たり前だ。
ガキの時分ならいざ知らずええとしこた大の大人がいつまでも旅のとりこになってここは良かったけど、こっちの温泉はがっかりだなどと書き込んでいるのは幼稚だよなあ。
観光ポスターに使われる写真は美しい、確かに魅了される。
しかし少し考えたらそれはプロのカメラマンが何ヶ月も費やして美しい瞬間を切り取ったものだ。
われわれがぽっと出向いて出会えるようなカットであるわけがない。
実際の観光地は人であふれているのみならず、ゴミも散らばっているし、車もバイクもトラックもいくらでも走っている。
それは当たり前だし、そのおかげでわれわれは楽しいひとときを得ることができるのだ。
でも失望が襲ってくるのも確かだ。
料理がうまいと言ってもそれは地元で取れた食材だからうまいに違いないというバイアスがかかった思い込みで、冷静に考えたら梅田や難波に行けば、いや家の近所で容易に楽しめる程度の味にすぎない。
また観光地に到着するための時間も大問題だ。
家から最寄駅まで、歩いて大阪駅まで出て、有料特急に乗って2時間、そこからバスてな具合で、どう考えても時間の浪費だ。
でも長い老後、やることがない無聊に多くの人は苦しめられる。
パチンコや博打では心は満たされない。
そうすると旅行で浪費する無駄な移動時間や得るところがない観光はヒマを潰すためにはなかなかよく考えられた装置にも思えてくる。
われわれ古本屋もそこには学ばないといけない。