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古本屋日誌
スカイAの『虎ヲタ』12月号の放送があった。
ますだおかだのますだと関本賢太郎がやってる番組だが、今月はデイリーなどスポーツ新聞5社のトラ番を呼んでのあれこれだった。
その中で『報知新聞』は「今年の特ダネ」として新年企画でやった岡田監督と掛布の対談をあげた。
その対談の中で報知の記者は、タイガースが逆転優勝を喫してしまった2008年の、例の10月に入ってのドームでのジャイアンツ戦のことを岡田に聞いた。(意地悪やけど『報知新聞』だし、タイガースファンも知りたいところでもあるのだ)
すると岡田は「問題はその試合やのうて、その前にあった。
ジャイアンツ戦を見据えてローテを改変したんだが、そのために、前の試合も落としてしまい、また10月8日の試合もダメだった」
「だからな、今年はそんなことはせーへん。普通に戦っていく」と言ったというのだ。
やるほど、これは特ダネだな。
確かに2008年は、ジャイアンツと最後やる少し前に、神宮でスワローズ戦があったのだ。
安藤がいいピッチングしていて、しかも4点リードがあったので、早めに下ろして次の大舞台に備えさせた。
これはもちろん10月8日に安藤優也を先発させるためなんだが、結局疲労が蓄積していたセットアッパー陣が打ち込まれてスワローズに逆転負けしてしまった。
岡田は今シーズンしばしば「普通にやったらええんや」と言っていたが、その言葉は2008年の自らの指揮の失敗を踏まえてのことだったのだ。
大阪を愚弄する、差別番組の『ブギウギ』の今週は、大東亜戦争中の劇場の統制の話だった。
笠置シヅ子が、舞台を所狭しと動き回ってジャズを唄うのを、軍は禁止し、「三尺四方」から出ずに唄うように強制されたという展開だ。
シヅ子が辛抱たまらず、舞台の床に書かれた正方形の囲みから出て、自由に唄ったところ、臨検の軍人に公演中止を言い渡されるシーンもあった。
他に、淡谷のり子も、化粧が濃すぎるとか、マスカラが長すぎるとかで、何度も軍の取り調べを受けているシーンがある。
確かに生前、淡谷のり子はテレビのインタビューで「化粧のことまで、くどくど、濃すぎるとか、やり方がダメだとか言われたのよ」と語っていた。
笠置シヅ子が実際にどうだったのかは、俺は寡聞にして知らないのだが、淡谷のり子のことを考え合わせると、それに近いことはあったのだろう。
ただ大阪のOSKの大劇での舞台は、それほどの統制があったようには見えない。戦争中も、あの大阪大空襲の後もずっと、松竹座などで公演は続いていた。
「春のおどり」もフィナーレの「さくら咲く国」の大合唱や傘回しもいつも通りだったことがわかっている。
やはり東京とは統制のレベルが違っていたように思うのだ。
その上で、俺は戦時中に、芸能に統制をかけるのは、それなりの合理性を持っていたと考えている。
死ぬことを恐れて戦えないのでは当時の帝国主義戦争に勝つことなど、到底できないからだ。
冷戦下のアメリカのレッドパージも同じような理屈で、ハリウッドにも波及していた。
大江健三郎が岩波書店の『図書』に連載していた「親密な手紙」がようやく岩波新書で出た。
連載は2013年に終わっていたのに、長らく上梓されなかったのは不思議だったな。
亡くなる前の10年ほどの大江は、原稿に手を入れることがままならないほど、体調がすぐれなかったということなのだろう。
福島の原発事故以降、大江は反原発の集会に参加して、積極的に発言している。
この本にも岸田衿子を追悼するなかで
「原発の電気エネルギーなしでは、偉大な事業はなしとげられないと申す人々も居られます。それはうそであります。原子力によるエネルギーは、必ず荒廃と犠牲を伴います」と渡辺一夫をもじった文を書いている。
このあたりを読むと、大江健三郎が穏健な、市民運動の側の人間という感じは確かにする。
かつて『セブンティーン』や『政治少年死す』や『奇妙な仕事』『個人的な体験』などというおよそ市民道徳からも常識からもかけ離れた暴力的な、鮮烈な作品を矢継ぎ早に発表していた大江を知っているだけに微笑ましい。
そもそも大江は「天皇制を認めないから」として文化勲章を拒否するようなところがあるひとだ。
その片鱗が今回の本にもある。
皇后が仙台の宮城区を訪ねた際、被災者の女性から、自宅の庭に咲いていた水仙をもらって帰った。
実は16年前に皇后は皇居の水仙を持って見舞いににきたことがあったのだ。
大江は、つまりこれは前の水仙の返礼だと考えて「この国の文化のなかでの新しいものに感じられる人と人との対等の関係を、小さな黄色の花がかざっているように私は感じる。」と書いているのだ。
確かに、民主主義のこの世の中、身分制度であり、平等を否定する天皇制は不思議な存在だよな。
先日奈良の生駒に行ってみた。
ここは鶴橋から快速急行に乗ったら、もう次の停車駅で、たった15分くらいで着いてしまう近さだ。
若い頃は大阪の中心部で暮らしていても、結婚して子供ができると、広い部屋を持ちたいとか、緑のあるところでのびのびと育てたいとかで奈良方面に宿替えしたり、家を出る買う人が出てくる。
生駒や学園前、奈良市内なんかはそういう人たちがたくさん住んでいる場所だ。
それなりに余裕のある人も多いので、いい本が集まる。
だから、古本屋もたくそんあって、店内にはなかなかお目にかかれないような珍しい本が並んでいたりもするのだ。
でもブックオフの店舗以外は皆小さな店で、あまり集客しているようには見えないのは不思議だ。
昔からずっとそこにあるお店で、棚にはたくさんの本が所狭しと並んでいる上に、通路にも雑然と本が積み上がっている。
俺みたいな年代の人間には「掘り出し物があるんちゃうかな」と心を揺さぶられる風景なんだが、そんなことを思わない人も多いわけだ。
もっと大きなスペースで、明るく、椅子やテーブルも備えてあって、座り読みができて、欲を言えば、美味いコーヒーやケーキなども食べられて、のんびり本が読めたり、話ができたりするような古本屋ならいいよなあ。
OSKは今年で、創立100周年となった。
元は松竹の経営だったが、近鉄が引き継いだのはいいが、結局放り出して苦難の道のりだったよな。
10年前の90周年の時に、大判の記念誌が出た。そして満を持して今年、100周年記念誌が出た。オールカラーで350ページくらいあって素晴らしい。
その中に1933年のストライキの話がかなり詳しく載っている。
当時の花形スター飛鳥明子がリーダーとなって、舞台を放棄して(つまりストを打ったわけだ)高野山に籠ったやつだ。
飛鳥は絶大な人気を誇っていたのだが、この争議の責任を取らされて、退団している。
しかし同時期に争議を引き起こした東京では、やはり指導者だった水の江瀧子を解雇しようと会社側は画策したが、その人気のために諦めざるを得なかった。
それにもかかわらず、何故大阪では飛鳥明子がパージされてしまったのか不思議だったのだ。
この『100周年記念誌』によれば、会社側は、楽屋に待機していた50人に及ぶ劇団員を呼びつけたのだが、その途中で争議団の幹部スターたちがやってきて20人ほどを引き抜いてしまった。
残りの30人くらいが、なんとか会社に出向いたところ、「争議に同調しないように」釘を刺されたのだが、それでも20人くらいが争議団の方に行ってしまったとあるのだ。
これは経営者にとっては赤恥をかかされたようなものだ、その怒りが飛鳥に向いたのではなかろうか。