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古本屋日誌
上沼恵美子が先日から『週刊文春』で人生相談の連載を始めた。
『文春』は坪内祐三が死んでしまって、その連載がなくなってからはこうたことがなかったが、例のダウンタウンの松本に関するスクープが載っているので、このところ三週連続でこうた。
俺は松本のような芸人風情がどうなろうと興味はない。芸人などいてもいなくても全然困らないからだ。
農家の人たち、土建屋さん、工場の労働者、トラックの運転手さんや、コンビニの店員さん、郵便局のみなさん、スーパーの店員さん、電車の運転手さんや車掌さんとかこそが、この世の中を根底から支えている立派な人だと思っている。
そもそもどうでもいい仕事をしているからこそ、芸人風情はあんなたくさんの収入があるんだと思う。
それはさておき、今週の相談の中で上沼恵美子は、南座の地下にある「松葉」といううどん屋で若い頃、今の旦那とデートした話を書いている。
なんでも旦那は「にしんそば」をオーダーしたそうで、「私、ハートを鷲づかみにされたんです。それまで私はにしんそばなんか食べたこともなかったんで、「いやぁ、かっこいいな」って。」
これは不思議な話だ。
そもそも京都の連中がありがたがるにしんそばて、全然美味しいことないけどね。徳川時代は流通が発達しておらず、身欠きニシンや鯖寿司なんかをタンパク源とせざるをえかなっただけのことだ。
今のわれわれに必要な食べ物ではないし、そもそも美味くない。
それを上沼恵美子がありがたがるというのは、味音痴なのか、男に溺れてわけがわからなくなったということなのか❓
さらに『松葉』はそもそもにしんそばが名物のお店だ。そこでにしんそばをオーダーするのはごく当たり前のことなんだけどね。、「かっこいいな」とおっしゃってもね、バカじゃないんだろうか。
さらに、さらにいうと『松葉』のそばやうどんが美味いとは思えない。京都は観光客相手のいい加減な店がたくさんある土地なのだ。
今日は芥川賞の発表だ。以前は発表されてから単行本化していたのだが、いつのまにか、候補作の段階で単行本になるようになった。
その中で九段理江の『東京都同情塔』は雑誌『新潮』の12月号に一挙掲載されたものだが、評判がいいのか、その『新潮』は売り切れている。
それで早速ジュンク堂で単行本を手に入れて一読してみた。
犯罪者は今は刑務所に収容されて、当たり前だが不自由な生活を送っている。
しかし犯罪を犯してしまうのは不幸な生い立ちに問題があったからで、犯罪を犯さない人たちは幸せな生い立ちを送っていたからに過ぎない。
その償いとして、東京の一等地に巨大なホテルのような収容施設を建てて、外出はできないものの、何不自由ない暮らしを送ってもらうことになった。
という書き出しなんだが、いやいや、少なくとも殺人を犯すような人物は先天的にそういう質があるんだよとか、いやそれはないだろうみたいな論争や議論とはこの小説は関係ないのだ。
「東京都同情塔」といわれるこの収容施設を設計した主人公は、もともと身の回りに美しいものだけを集めたい切実な慾求を抱く女性なのだ。
男関係も「ママ活」をしてかなり年下のイケメンと付き合っている。
彼女にとっては刑務所や犯罪者も美しく、調和のとれた存在としてあるべきだった。
1985年に三一新書で、立川談志の『現代落語論』が出た。
談志は上岡龍太郎の『上岡龍太郎かく語りき』のちくま文庫版に解説を書いている。
普通は解説を引き受けたのだから、その本の愛読者であるわけだが、談志は辛口で、上岡は才能があると期待していたのに、現状では期待外れだ、とけなしている。
その原因の一つが大阪落語への上岡の評価にあるように思えるのだ。
上岡はすでに高校生の段階で「落語は東京、漫才は大阪だ」と大阪落語のレベルが低いと判断したことを堂々と書いている。
一方、談志は自著の中で上方落語を東京のそれと比べて、軽んじる風潮があるが、そんなことはないと擁護しているのだ。
談志は東京の落語はそもそも上方から移植されたものがかなりあると指摘する。
また大阪のは、話が枝葉を含んで整えられていないこと(饅頭こわい、なんかはその典型だ)、話し方が東京人は受け入れ難いことなどが、低評価の原因だろうと的確に分析している。
そして例えば、松鶴や米朝のネタを東京に比べて大したことがないとは言えないだろうという。
俺は『初天神』なんか、東西両方のを聞いてみて、東京の話の方が明らかに面白いと認めざるをえない。
大阪落語の『初天神』は話が保守的で、明治時代のくすぐりをそのまま使っている。
子どもが飴ちゃんを舐めていて、突然『父ちゃん‼️あめ落とした」と半泣きになる。
「どこ落としたんや❓」となって
「のどの穴」というようなくだりなんだけど、面白いとは言えまい。
芳賀徹が中央公論社から出した『外交官の文章』は近代日本の歩みを、当事者の日記や自伝をもとに読み解いていく労作だ。
不平等条約の解消に尽力した陸奥宗光の回顧録『蹇蹇録』の話はとりわけ秀逸。
例の東学党の乱の原因なんだが、日本が朝鮮の身分制度の解消を命じたことに反発したことがその一つとして上がっているということだ。
わが国は明治になってとりあえず四民平等を建前として(身分制度でしかない天皇制を温存したけどね)やったきたが、朝鮮にはまだまだ封建的な身分制度が根強く、これが近代化の桎梏となっていたのだ。
しかし大衆の、ある部分は、強くこれに反発して身分制度の温存を求めて反乱を起こしたのだ。
こういう事例はインドのセポイの乱でも見られたことだ。
いわゆるカースト制度は、イギリスの植民地支配にとって邪魔な面があって、とりわけ軍隊においては、カーストにこだわられては作戦がスムーズに遂行できないので致命的だ。
そこで、これに手をつけようとしたところ、激甚な反撃を引き起こして、結果、植民地支配そのものが危機に瀕してしまったのだ。
要するに、これまで通り差別したい大衆の感情が、植民地支配を危殆に瀕せしめたということになる。
くだらないコロナ騒動が終息して、京都は再びオーバーツーリズムとなっている。
観光業者は潤っていようが、関わりない住民にとってはわずらわしいことだろう。
そもそも旅行に出たくなるのは、かなりの部分が洗脳である。
日常を離れたくなったとか、旅先で癒されたいとか、そういうストレスの捌け口として旅行が選ばれるというのは思い込みに過ぎないということだ。
美味いメシなんか、自分住んでいる街でいくらでも安く食べられる。
温泉とかいっても、薬局でちゃんとした入浴剤をこうてきたら、旅先の源泉なるものと何も変わらない。
美しい風景とかいっても、近場でいくらでも楽しめるところがある、本人はバカだから知らないだけだ。
かなりの運賃を払い、時間もたくさん使って飛行機や特急に乗り続け、ホテルに辿り着いて、自分の住んでいる町でも食べられる程度の食事をありがたがっていただくことに意味があるのかということだ。
美しい風景といったところで、オーバーツーリズムでゴミも散乱しているし、そもそもたくさんの観光客で混み合っている。
ネットのイメージビデオや、パンフレットの美しい写真はプロのカメラマンや業者が何回も掃除してゴミを除去した上で、アングルを考えて撮った究極の一枚だ。そんなものに現地で出会えるわけがない。
また、ホテルや旅館、温泉の従業員も内心「あーまた来たのか、もう客多すぎる。やめてくれ‼️」思っているし、人間だから表情や仕草にもそのことは表れる。
その程度のことは、旅行客もさすがにわかっていながら、それでも休みになるとまた旅行に出てしまうというのは、洗脳のなせるわざだろう。
その影響で、京都市内は地価が上がり続けており、もはや古本屋の商売はやりづらくなってしまっている。
地価の上昇で賃料も上がってしまい、古本での売り上げではまかないきれないのだ。
一部の古本屋は店舗での営業を諦めて、ネットと全国の古本まつりへの出店で生き残ろうとしている。
ネットでの販売なら、登録料は高くても月に5千円くらいだから、安心だ。
古本屋といえば倉庫が必要なんだが、その賃料もバカにならない。
そこで、自家用のバンにみかん箱に詰め込んだ本を積み上げて、倉庫代わりにして、そのまま全国の古本まつりを巡業する営業形態をとるのだ。
なんか、ちょっと前の香具師みたいだよね。
車寅次郎みたいに、気の向くまま、風のふくまま流れに流れてというやつだよ。