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古本屋日誌
連続テレビ小説の『虎に翼』は、女性で初めて弁護士になった三淵嘉子をモデルにしたものだ。
このところの回では、原爆裁判が取り上げられていて興味深い。
広島と長崎に原爆を投下したアメリカの行為は住民全員の虐殺を狙ったもので、国際法に明らかに違反する犯罪である。
しかし日本政府はサンフランシスコ講和条約で、アメリカに賠償を求める権利を放棄しているので、この裁判では日本政府に賠償を請求しているのだ。
先ごろ毎日ワンズから出た『原爆裁判』という本は大々的に新聞で広告がでてるけど、中身はつまらないもので、三淵が裁判官としてどう判断したかや、裁判の細かい流れを書いていない。
天下のNHKが、さて、放送でどう扱っていくのか俺は興味を持ってるね。
このところ立て続けに吉田満の『戦艦大和ノ最期』が売れている。
今も講談社文芸文庫から出ているロングセラーなんだが、4月でもないのに理由はよくわからない。テレビで敗戦特集があってそこで、大和が取り上げられたのかもしれない。
そういえば、NHKで深夜、1980年放送の吉田満特集が再放送されていたな。
吉田はその前の年、1979年に亡くなっていて、葬式で江藤淳が挨拶しているシーンが流れていた。
江藤は根っからの反米主義者で、大日本帝国は無条件降伏してないとか、GHQの検閲は問題だとかわけのわからない言論活動を続けていた人物だ。
検閲なんか戦前の日本でも広範囲に行われていたわけだし、問題にするなら、天皇制のもとでの検閲も大問題だとして取り上げないとダブルスタンダードになってしまう。
吉田は『戦艦大和ノ最期』のなかで、撃沈されたあと、洋上に漂い、救助を待っていた将兵のもとに、駆逐艦のボートが来るのだが、すぐに定員オーバーとなってしまい、それでも船縁にすがりつく兵隊の手首を、ボートの兵士が軍刀で切り落としていく模様を描いている。
これはどうも創作らしいのだが、江藤淳はどう思っていたのだろうか。
現在、京都ではいろんなところで古本市が開催中だ。
まず下鴨の糺の森の古本まつり、20を超える古本屋が出店していて50万からの本が並んでいるという。
たくさん本があるのは結構だが「納涼」ということは全くなく実に暑い。
またすぐ横に小川があるせいで蚊の襲来を避けることができない。
もちろん、人出も多いため、テント内では身動きできなかったり、ぶつかったり、お目当ての本がささっている本棚まで行くのに人を押し分けていかねばならなかったりと面倒だ。
また、じっくり本の内容を確かめるゆとりが持てない。
何せ暑い、暑い、ページをくっても文字に目がついていかない。読んでも中身が脳みそに届かない。
俺以外の客は、どうなんだろう。こんなにクソ暑い中で本を読む経験なんかないんじゃないか❓
俺が見るところ下鴨の古本まつりは女の客やカップル、家族連れもかなり来ているのだ。
学生なのかもしれないが、研究のために必要な本は図書館で見た方が手っ取り早いし、安い。
どうしても手元に置きたいなら、Amazonで注文したら確実に手に入る。だから古本まつりなどに来て、必要な本を探すなど、まともな学生ならやりはしない。
だからここに来てる人たちは暇つぶしや、年中行事みたいに毎年来てるから習慣としてやってるとか、なんだろうけど、いずれにしても理解に苦しむところだ。
暑さゆえに、頭もボーッとしてしまうから、あとで考えたら(なんでこんな本こうてもうたんやろ)ゆうことがしばしばある。
南の端にはかき氷やジュース(150円)、ビール、レイコー(500円)なんかを売っているテントがあって、その前には床几も置いてあってくつろげるようにはなってるけど、人でいっぱいだな。
レイコーにしても500円払えば、普通はクーラーのよく効いた、蚊なんかありえない快適な空間で楽しむことがいくらでもできるのだから、考えたらおかしな話だよ。
ジュースなんか大型のクーラーボックスに氷水を入れて冷やしてるのだが、そもそも何時代のスタイルなんだよ。
渡してくれる時滴る水滴をタオルでふいてくれるんだけど、その無駄な時間に取り立てて話が弾むわけではないのが、昭和との違いだ。
つまり、下鴨は一種のガマン大会みたいなもので、高校生がクソ暑い真昼間の甲子園で試合をやってるような感じがするのだ。
甲子園の野球は、所詮はガキどものクラブ活動でしかないからどうでもいいけど、古本まつりは大人が趣味と実益をかねて本の楽しみにひたる場なんだから、もうすこし情緒が欲しいな。
その点現在丸善の地下でやっている「へんちなんまへーん」という古本市は規模は1万冊くらいで、下鴨と比べようもないが、クーラーが効いていて実に快適だ。
本棚の間隔もゆとりがあるし、客も少なくてじっくり本を楽しみながら好みのものを見つけることができる。
またすぐ前には梶井の檸檬を模したスィーツやハヤシライスを売りにしている喫茶店があって、美味しいレイコーを楽しみながら、こうてきた本を読めるのだから、たまらない。
また三条京阪駅に直結しているビルにあるブックオフでは今日から4日間、全品20パーセントオフとなるセール中だ。
ここは地下の京阪の駅からエスカレーターで店に入れるから全く暑さの被害を被ることもない。在庫は10万くらいはゆうにあるから、規模としても下鴨にさして劣るわけでもない。
1000円以上買い物をしたら2階でガラポン抽選があって、とりあえず50円引き券をもらえる。
さてこの3ヶ所の古本市の人出だが、圧倒的に下鴨が多い。下鴨を100としたらブックオフ三条店は0.01、丸善は数字にするのも難しい。
京都の人たちは変わってるね。
杉本秀太郎の『西窓のあかり』によれば、かつて祇園祭の山には車輪はついておらず、舁き手がずっとかたげて巡行していたとのことだ。
現在は鉾の辻回しが行われる交差点でだけ、かたげて何回か山を回しているが、それ以外は車輪があるから、スムーズに、スピーディーに進んでいく。
杉本はかつて山を担いでいたのは天秤棒で「肥えたご」をせたろうていた百姓であり、現在の「非力な」学生でも車輪のついた山は動かせるが、かたげることなど思いもよらぬことだというのだ。
そうなのか、確かに現在の祇園祭は各大学の体育会系の学生を引き手として雇っているが、かつては町内の人たちがやっていたと思っていた。
ところが山は御神体を乗せたあの重量物を、おうこ(天秤棒の京都弁)で肥たんごをくみにはるばる宇治などの在所から来ていた百姓連中がずっと担いでいたのだ。
つまり趣深い祇園祭の担い手は、杉本が鼻も引っ掛けない在所の百姓連中だということになる。その巡行を見つめる杉本の視線はもちろん、この上ない「雅」を感じていたことは間違いないが、ここにも差別的なものがあることは間違いない。
それはもちろん結構なことだと俺は思う。
壮麗な祇園祭の雅にはこういう「不潔さ」も重要なファクターであったのだ。
彼は雅の条件として「薄暗さ」が保たれていることや、「寒いこと」「清潔と不潔の間」を挙げている。確かにその通りだ。
随筆家の杉本秀太郎は、中京に長らく住んでいて、そのことにプライドを持っていた。
井上章一が工学部の学生時代に杉本の古い屋敷を調査に訪れた際、「あんたはどこの人なんや」と聞いて、井上が宇治だということがわかると「あそこからはな、肥えくみに、ようきてはったわ」と言い放った話を書いている。
杉本の差別意識がよくわかる話だ。
でも、俺は差別はいけないとは全然思っていない。
杉本のような素晴らしいプライドがあるからこそ、祇園祭は存続しているのだし、曲がりなりにも町屋建築や古い建築物が残っているのだ。
その杉本が1983年に筑摩書房からだした『西窓のあかり』というエッセイ集がある。この中に祇園祭への激しい批判を彼は書いているのだ。
まず杉本は祭りを担っていた町衆はとうの昔に消滅して、今は株式会社と自営業の様々な人たちが祭り切り盛りしていることを批判する。
彼らの審美眼はなっておらず、金持ちから提供された「安直な」胴掛けが山鉾に使われているという。
杉本が言うには伝統的な山鉾の胴掛けや装飾は京町家に囲まれた狭い路地と合うように、セレクトされていて、現在の広大な御池通とビル群には全く合わないというのだ。
いやもう大変だよね。
杉本の批判を聞いていたら、祇園祭は中世にでも遡らなければ真っ当でないことになってしまう。
でもこういうとんでもない批判があるおかげで、京都は土俵際で踏みとどまって破壊を免ていることも確かなのだ。