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せいゆう丸釣行記

2019-09-18 04:20:00

世界四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)の一つである黄河文明(長江文明と遼河文明が含まれることがある)は4~5000年の歴史があるとされ、その文明の中心には栄枯盛衰を繰り返しながらも常に強大な国家が存在していた。

 

紀元前400年から同200年頃まで続いた戦国時代を終焉させ初めて中華統一国家を樹立したのが、あの万里の長城を作ったことで有名な秦の始皇帝でしたが、始皇帝の死によりわずか15年で滅びた実に短命の王朝だったそうな。

 

(万里の長城の大半は明の時代に築かれたみたいで、秦の始皇帝が作り始めたというのが正解のようです。)

 

 

 

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ちなみに世界遺産にもなった 「兵馬俑坑」 は秦の始皇帝が崩御して作られたそうだが、わずか15年の王朝だったとは言え、当時絶大な権力を保持していたことがこれを見ただけでも容易に伺い知れると思う。

 

 

 

それに比べると、中華の外側にある文明の低い卑しいとされた地域の諸国の力は極めて脆弱で、いつ何時中華に攻め入られて征服されるか分からない不安定な状況にあったので、とりあえず定期的に王朝の天子に大量の銀とか絹織物などの貢物を献上してご機嫌を伺うようになったそうな。

 

それが日本で言うところの 「長いものには巻かれろ」 みたいな 「事大」 大きなものに事える(つかえる)的な主義が周辺諸国に定着し、君主である天子に一生懸命貢ぎ物を繰り返すことで見返りにその存在を約束してもらう 「冊封体制」 が構築されたみたいだ。 

 

冊封とは 「冊(さく)=文書 を授けて封建する」 という意味で、中華王朝から王とか侯などの爵位を授かり君主関係となってそれぞれの国を治めることが出来たのだが、日本(倭国)も遣隋使や遣唐使として諸説あるけど合計20回程度朝貢している。

 

日本書紀に記載されてるらしいが、遣隋使として小野妹子が国書をたずさえて隋の皇帝である煬帝(ようだい)に謁見したものの、その国書の中に 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。・・・」 と書いてあったものだから煬帝が外交担当官に 「東夷のこんな無礼な書を今後一切自分に見せるな!」 と激怒したそうな。

 

つまりは 「天子と呼べるのは中華の皇帝である俺様だけで、卑しい東夷に天子と言わせるな!」 ということみたいだね。

 

しかしながら倭国(日本)は朝貢はしたものの、冊封体制に組み込まれるのを頑なに拒み続けた結果、その当時隋と対立していた高句麗などのコリア情勢も手伝って、倭国からの冊封無き朝貢を受け入れたものとされています。

 

 

 

まあそう考えると日本という国は海という防御壁から守られて、様々な国難を乗り越えてこられたものだと思いますねえ。

 

隋とか唐などの強大な大国であっても、海を渡って戦争を仕掛けて倭国を征服するにはリスクもコストもかかると分かっていたようで、常に陸続きのコリア諸国やモンゴルやマンジュ(満州)との争いに忙殺されてたから、倭国にはそもそも興味が無かったのかも知れませんねえ。

 

 

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今日はここまでにしますが、今度の日曜日の夜あたりに次の台風が最接近する予報となってますので、この先少なくとも1週間はお休みになりそうなので、この話題をチビリチビリ出しながら時間稼ぎをしたいと思います。(笑)