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古本屋日誌
小谷野敦が中央公論から『徳川時代はそんなにいい時代だったのか』を出した。
小谷野はだいぶ前に『江戸幻想批判』を出しているので、その続編だ。
徳川時代は身分で将来が決まってしまっていたから、低い身分に生まれてしまったら、いくら才能があっても埋もれたままであった。
公衆衛生の観念も発達していないし、医療技術も心許ないから、一旦重い病にかかってしまったら、あっけなく死んでしまう。
世評高い渡辺京二の『逝きし世の面影』はとんでもない悪書だという。
渡辺は徳川時代の大衆が、みな笑顔で自足していると当時日本を訪れた欧米人が書き残した記録によって論じる。
小谷野は笑顔で自足しているのは、いくら努力しても無駄だとわかっていて、向上心や探究心の持ちようがないからだと批判する。
なるほど納得できる内容だ。
俺もだいぶ前だけど結核にかかり、40日余りも入院を余儀なくされた。徳川時代なら間違いなく死亡していた。
才能のことも、現代は特段才能などなくても大丈夫というところもいい。
本屋に並んでいる本は、大半がくだらないものだし、映画もどうしてここまで愚にもつかないものが制作できるのか、いぶかしく思うこともしばしばある。
でも朝から夕方までの仕事でクタクタに疲れた労働者が息抜きに求めるものは、あの程度の時代小説やテレビドラマであるわけだから、その切実な要求に作家が、真摯に答えた結果なのだ。
いわば工場でジュースやビールがベルトコンベアで、目にも止まらぬ早技で生産されるように、小説も映画も判で押したようようなものが量産されている。
そういう大きな需要がある社会は、バカを甘やかしてくれる社会なわけだから誠にありがたい。
俺もあやかりたいと思っていることは、いうまでもない。
本の仕入れ先を広げたいのはどの古本屋も考えることだ。
本はあるところには、いくらでもあるものだ。
逆にいくらたくさんの人が住んでいる地域であっても、ないところはまるでないものだ。
うちが扱っているような本を持っているとなれば、学生、大学や高校の先生といった教育関係者、医者、整骨院、マッサージ師などの医療関係者、テレビ局、新聞社、雑誌社などの報道関係者となる。
その中で以前から大学の研究室には営業に行きたいと思っていた。
ただ、これまで何人かの大学の先生のお宅に買い取りに出向いたことがあるのだが、本棚に並んでいる専門書はどれも値段の張るものなんだが、これまで扱ったこともないものばかりで、査定のしようがない。
となれば学生から買い取りたいと思うのだ。
以前京都大学の入学式が、西部講堂であった際に、東大路に面した階段の下で、司法試験予備校が入学案内のチラシを配っていたのを思い出した。
といっても俺の記憶にあるのは40年も前の話だから、今はどうなってるのかわからない。
でも京大本部、時計台前の正門なんかで学生相手に「ご不要の本をお譲りください」てなチラシを配ることは営業上意味があるように思える。
ただ自分のことを考えても、わけのわからんチラシなど、普通は受け取りはしないから何ほどか工夫は必要だろう。
その辺をどうする、ティッシュをチラシに付けるとか、マスクをサービスで付けるとか、今思案中だ。
『本の雑誌』に日下三蔵が自宅の本を処分して家を片付ける話を連載している。
俺が読んだのは今年の3月号までなので、今も連載してるからは不明だけどね。
日下は自宅にとんでもない量の本を溜め込んでおり、床から本の塔が一面にそびえたち、床が見えないのは当然のことで、置いてあるテレビやオーディオも埋もれて所在不明だという。
面白いのは彼が寝ている布団の周りにも塔が並び立ち、それぞれ人間の胸の高さくらいはあるのだというのだ。
東京は震度4くらいの地震は珍しくない。
もし何かの拍子に塔の倒壊がおこったら、それこそドミノよろしく、何も知らずに船を漕いでいる日下を直撃するだろう。本人もその危険性は承知していて、いつもは必ず「うつ伏せ」に寝ているという。
バカだよなあ。
そんなもん古本屋にさっさと売り払って天下晴れて堂々として寝たらいいだろうよ。
日下は時に仕事でホテル住まいのことがあるそうで、その時はちゃんと仰向けに寝るという。
そして仰向けに寝ている時の気持ちを「背徳感」を感じていると表現しているから、笑わせるぜ。
いけないことをしてしまっている思いにとらわれるというのだ。
日下は周りの本から「うつ伏せに寝ろ、寝ろ❗️」と暗示を受けて、そうしないと本に申し訳がたたないと思っているわけだよ。
古本屋の最大の課題はいつも仕入れだ。
仕入れ先はそんなにないから、いつも探しているわけだ。
先日古書組合に加盟している知り合いの古本屋と話をする機会があった。
「組合がようやっている、業者の市なんやけど、写真で見てたら40〜50冊を、ひぼで結わえて『さあ〜なんぼなとこうてくれ❗️』みたいな形でやってるよね。あないにぎょうさんこうて、全部は売れへんやろし、どないすんの❓」
「それはな、悩みの種なんや。俺んとこもな、店もってるわけやない。おまはんとおんなじ、通販専門や。
市で結わえたある本の束落とすやろ、そんなかで要る本ゆうたら数冊なんや。
もうあれやな、川で砂すくうて砂金取り出すようなもんや。いっつもアホらしなってくるわ」
「そうなんや、ほたら、その要らん本はどないすんの❓
店があったらワゴンとかに押し込んで50円均一とか100均とかで売れるやろけど、通販やったら馴染まない本がようさんあるやろ」
「それはな、欲しい数冊取り出したらな、またぎゅーうてくくってな、すぐさま業者の市にだすんやわ」
「えーだれぞこうてくれはる古本屋あんのん?」
「あかんこともあるし、売れることもあるんやけど、あかなんだら、潰しにして処分するわけよ。
処分するのもわしらは業者やさかい、市にただで引き取ってもらわれへんよって、車に積み込んで国道沿いの処分場までもていかんなんさかいめんどくさいわ」
このところ古本屋の閉店が続いている。三ノ宮の「カルボ」、梅田の「汎書店」、京都の「津田書店」、千林大宮の「尚文堂」など。
また閉店はしないが、京都の「梁山泊」が街中から大津の比叡平に移転したり、天神橋筋の「駄楽屋」は同じビルの一階から三階に移転したりしている。
理由は店をやるメリットがあまり無いことだろう。
固定費や人件費が必ず請求されるのに、売上はコロナ騒ぎもあって低迷している。それに対し、通販での売り上げは好調だ。
つまり店舗など閉めて、安い倉庫をレンタルして通販に切りかえた方が効率がいいということになる。
その中で一箱古本屋という経営スタイルがある。
大阪では文の里の「みつばち古書部」、阿倍野の「七味」がそれだ。
いずれも本を出品する人を、本箱一箱につきいくらいくら出してもらう契約で募り、運営していくスタイルだ。
例えば一箱につき月に5000円、売上の5%を納めるという感じだ。
このスタイルならとりあえず毎月安定して資金が入ってくるメリットがある。出品者が10人なら毎月5万、20人なら10万だ。
これは実にありがたいことなのだ。
古本屋の店舗を新しくやる場合、当初はなかなか周知されないから、客も来ない。
なんとか盛り上げようとイベント(読書会とか、人脈を駆使して著者を招いたりとか)を企画したりもするが、手間もかかる上に、そんなにいくつも打てるわけでもないから、尻すぼみになってしまう。
その欠陥を補おうと考え出されたのが、一箱古本屋システムなのだ。
ただ問題もある。
店の立地が繁華街でないことが多い、そのため客は時代小説やベストセラーを求めているのに、売っている古本は古い文学書だというミスマッチが起こる。
また価格がネットのそれになっていて、明らかに割高なのに、気づかず販売を続けてしまい、ほとんど売れないことも起こる。
店主が本の補充に熱心でなく、いつ行ってもおんなじ本なので、すぐに飽きられてしまう危険がある。
店主はリタイア組で、のんびり商売したい、売れても売れなくてもいいやという姿勢の人も当然含まれるからだ。