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古本屋日誌
うちの古本屋は2011年に始めてもう10年は経ってるけど、お客さんから買取出来たことはほぼない、皆無だ。
世間ではホームページなどで、要らない本をダンポールに詰めて着払いで送ったもらえれば、査定して代金を指定の口座に振り込むという古本屋がたくさんある。
でも本を売るなら普通は近所の古本屋にするだろう。
適当に古本屋を選んで、買い取りを依頼したらあとはなにもしなくてもいいわけだ。
面倒な段ボール詰めや、梱包、玄関や一階までおろす必要も無い。
ところが着払いで送るとなると、自分で本を抜き出して、段ボールも調達して、詰め込まなければならない。
ゆうパックにせよクロネコヤマトにせよ業者に段取りつけて引き渡さないといけないし、着払い伝票を書いたり、身分証明書の写も同封しないといけないから、ひちめんどうだ。
それでも本を送る人が、相当いるようなのだ。
これは一つには、近所の古本屋に買い取りを頼むと、引き取ってくれない本がたくさん出ることによるものだ。
ほとんどの雑誌や実用書、エロ本、ハーレクィーンなどの文庫、自己啓発本などは引き取らない古本屋はいっぱいある。
その点、着払いでなら、なんでも送れるという安心感があるのだ。
また東京や大阪ならいくらでも、近場に古本屋があるが、それは全国的には稀なケースだ。
古本屋など存在しない地域は実に多い。
そうだからといって思い入れのある本をほかすのもしのびないのだ。
てなことにようやく思い至り、今後はうちも展開を考えてみよう思っている。
村上春樹の新刊「街とその不確かな壁」が出た。
発売当日、京都のMARUZENで早速購入、この店では先着200名にこれまでの村上春樹の著作一覧を記した栞をつけてくれることになっている。
この本のあとがきによれば、この小説は1980年に『文學界』に発表した中編小説が元になっているという。
「内容的にどうしても納得がいかず(いろいろ前後の事情はあったのだが、生煮えのまま世に出してしまったと感じていた)」
「僕が書いた小説で書籍化されていないものはほとんどないはずだが、この作品だけは日本でも、他のどの国でもまだ一度も出版されていない。」とある。
古本屋として気になるのは「僕が書いた小説で」というところだ。
前から気になっていたのだが、随分前に文芸雑誌『海』にアメリカの小説の評論を村上春樹は、連載していて、完結もしているのに、なぜか本にはなっていないのだ。
出来が悪いと感じているのかもしれないけれど、今から連載分の『海』を探すのは大変だよなあ。
末松太平の『完本 私の昭和史』が出た。
末松は2・26事件に連座して禁固刑に処せられた将校で、事件の当事者の1人だ。
以前みすず書房から出ていた本が2013年に中公文庫から出た。
そして注釈や1980年の『軍隊と戦後の間で』からいくつかの章を加えたのがこの本だ。
2.26事件の最大の関心事は当時青森にいた秩父宮の動向だ。
事件後彼は急いで上京しているから、クーデターを起こした将校との間になんらかの打ち合わせがあったのではないかと考えられるからだ。
昭和天皇は将校たちに批判的で、鎮圧をためらうのなら、自分が将兵を率いて鎮圧すると息巻いた。
だから、事件後、天皇が言うことをきかないならば、これを退けて秩父宮を新しい天皇に据えるプランがあったのではないかと言われているのだ。
末松のこの本では将校たちが秩父宮と連絡をとりあっていた可能性は否定していない。
しかし彼自身は宮と個人的なつながりもなければ、クーデター計画を打ち明けたことなどさらさらないと言う。
結局秩父宮がらみの話はこの本でもよくわからないままで、困ったものだ。
今日は新装なった祇園甲部歌舞練場に、嫁と出向いて都をどりを見た。
祇園の舞妓や芸妓がいろんなテーマで踊りを見せてくれる催しだ。
甲部歌舞練場では7年ぶりの公演で、なかなかの盛況だ。
それにしても、京都の方々が売り物にしている五花街、舞子や芸妓の商売ほど得体の知れないものはない。
お座敷遊びはやったこともないから、全くわからないし、彼女らの舞や踊り(正確には舞だろうけど)のレベルがどの程度のものなのか、判断する基準すら持ち合わせていないから、(ようわからんけど、きれいだよなあ、ありがたいことだ)と思うのが関の山だ。
つまり正確にはいいのか、悪いのかも全然わからないものに、それなりの金を払わせようというのが、京都の連中の考えなのだ。
今日の一等席の料金は6000円なんだが、「茶席付き」の券があって、こちらは7000円なのだ。
もちろん、歌舞練場の座席へのお茶やお茶菓子の接待があるわけではなく、開演の少し前に広間に客を集めて、抹茶とおまんを出すだけのものだ。
大広間にはたくさんの椅子と文机が並んでいて、客はそこにこしかけ、女中さんが、運んできてくれる茶菓をいただくしくみだ。
これでプラス千円というのはどうなのか、と思うところだ。
しかし、客の不満を抑える工夫があるのだ。
それは、大広間のセンターに、茶釜が二つしつらえてあって2人の芸妓が茶をたてている。
これは、芸妓の仕草を見るだけのもので、われわれが飲んだ抹茶は別室から運んできていた。
客は配られた茶菓をいただきながら、彼女らのしぐさを見るのだ。
彼女たちは念入りに化粧し、襟足も見事だし、簪なんかもたいそう立派に見える。
ただ芸妓の化粧やきもの、かんざしを評価できる能力など、全く持ち合わせていないから、これまた、(ご立派ですなあ)で終わってしまう。
芸妓や舞妓への共同幻想みたいなもの(きれいだとか、憧れを抱く存在だとか)が厳然とあるとして、そこにあぐらをかいて京都の商売は成立している。
美大上がりの瀬戸内文化の研究家である佐々木良が、万葉社から『愛するよりも愛されたい』を出した。
去年の秋に初版が出て、すでに5刷、六万部だという。今日梅田の紀伊國屋では「お一人様一部限り」なる表示まであった。
この本は万葉集の「令和言葉、奈良弁」翻訳なのだ。
「うましもの いづくか飽かじ 尺度らし 角のふくれに しぐし合ひにけむ」(巻十六、3821番歌)は次の通りだ。
「あの絶世の美女…
どんなイケメンでもいけそうやろ?
でもデブと付きあってんねんwww」
いやもうすごいね、大したもんだよ。