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古本屋日誌
著名な作家であろうと、たくさんの駄作を書いている。
一旦ファンが付いたら、出来不出来に関わらず、必ずこうてくれるから、世の中とは何と甘いものだろうか。
天才作家ですら、駄作を書いてしまう。
大江健三郎の『燃えあがる緑の木』はそれだ。
この作品は全三部にわたる長編で、四国の山の中の宗教団体の話だ。
学生運動家崩れのギー兄さんが、実家のある四国の田舎に帰りそこで、病人を治す奇跡を起こしたのだが、治らないで死んでしまった子供もいた。
そのため、怒り狂った村人にギー兄さんは襲われて傷つく。
しかし、その後ギー兄さんを信じる人たちが集まり教団となり、徐々に拡大していくのだが、信徒から教義の明確化を求められたりする。
さらに教祖のギー兄さんが説教を続けられずへたり込んでしまうのをみて、古くからの信徒が失望して離れていってしまう。
こういうストーリーを読むと、そのどれ一つをとっても宗教や教団のリアリティに即しているとは到底思えない。
教団は大江健三郎が書くような合理的なものだったり、この世の価値観で測れるようなものではない。
病の子は死んだのではなく、救われたのだと考えるのが教団というものであるし、信徒だろう。
教祖に教義の明確化を求める教団関係者など考えること自体が滑稽だ。そんな人はいるわけがない。
何故教祖と信徒が平等なんだろうか、そんなことがあるわけがない。
教祖は単なる先生とか指導者なのか?そんなわけなかろう。
合理的な判断があるならばサリンを、地下鉄に撒けと言われて撒くだろうか。そんな世界でないからこそ意味があるのだ。
教祖が説教出来ずにへたり込んだのを見て、がっかりして教団を離れるなどバカバカしい。
そんなことがあるわけがない。
このシーンは会社のプレゼンでしくじった社員を見捨てる管理職とおんなじで、それこそ日常生活の理屈でしかない。
さらに滑稽なのは稼働する原子力発電所に向かってギー兄さんと多くの信徒が行進するシーンだ。
原発の前で教祖と信徒は「集中」というお祈りを捧げる。すると2機の原発が事故を起こして停止することになる。
ありえないような話だが、ブン屋から因果関係の説明を求められて、ギー兄さんは「結果が曖昧でない祈りなどというものがありますか」と答える。
つまり「集中」という原発を止めるための祈りなどというものは、曖昧な結果しか持たない程度のものだと自らの行為を否定する発言をしたのだ。
世俗の新聞記者に、教祖がそんなことを言うだろうか❓
とうてい承服できない話だ。