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古本屋日誌
少し前に亡くなった立花隆の作品が文藝春秋から出た。
「インディオの聖像』だ。
ラテンアメリカでのヨーロッパ人の蛮行とイエズス会の布教をテーマにした本だ。
70枚にも及ぶカラー口絵が魅力的だ。
このなかで立花はラスカサスを引用しながらかつてのスペイン人やポルトガル人の蛮行を詳細に記している。
アメリカ大陸を「発見」したコロンブスを始めとして、もともといたインディオを大量虐殺したことは有名だが、立花は虐殺後の国家構成を論じている。
インディオを皆殺しにしてしまい、労働力が不足したので、アフリカの植民地から黒人を拉致して連れてきた国もある。
また同じくインディオを皆殺しにしたが、アフリカの黒人を輸入せず、白人を中心に国を構成した諸国もある。
また極めて例外なんだが、パラグアイはインディオの虐殺が少なく今日もそれらの人で構成される国もあるという具合だ。
われわれからすれば、同じ人間であるのに、インディオを皆殺しにするなど、スペイン人やポルトガル人の残虐性、非人間性に驚くばかりだ。
(もちろんオランダ人も南アフリカで黒人を皆殺しにしたし、イギリス人もオーストラリアでアポリジニーを大量に殺したことも、よく知られている)
では立花隆はこれらヨーロッパ人の蛮行を口を極めて罵っているのかというとそんなことはないのだ。
当時はインディオが、果たして自分たちと同じ人間であるのか、それとも人間ではなく動物のような、どうにでもできる存在なのかを真剣に議論しているという。
また立花隆は「それはそうかも知れない。たしかに、時代の制約はあるだろう。でも日本人はいくらなんでもそこまで酷いことはしてないよなあ」という当然考えられる感想に対して
『日本人だって、つい少し前には中国人やチャンコロと呼んで軽蔑し、殺し続けていたではないか』と書くのだ。
全ての歴史を現代史としてみる考えに異を唱えているのだ。
17日に3年ぶりの前祭の山鉾巡行があり、NHKでは、2時間半にわたって中継があった。
かなり前だが、巡行を拝見しようと河原町通や四条通に出向いたこともあるが、歩道上は立錐の余地なく、ものすごい見物人で身動きもできないほどだ。
カップルで来ている人たちは着物姿の女が「ごめんなさい、すこしつめてもらえませんやろか」などとしなをつくり、上手いこと前の方に出て行く。
上手いこと計算してやっているのも不愉快だった。
その上ギラギラ容赦なく照りつける太陽光線も強烈で、湿度も高く、汗は身体にまとわりつくが、蒸発せずひたすら暑い。
山や鉾を拝見するどころでない。やはり祇園祭はテレビで見るものだ。
四条河原町交差点の南東角の高層ビル7階にカメラが据え付けてあって、辻回しをする山鉾の様子を些細に見ることができた。
先頭の長刀鉾は3回に分けて、30度ずつ鉾を回転させていたが、月鉾は15、15、60度と3回目に一気に回転させていた。
また鶏鉾は四条河原町交差点に入る前から、交差点中心部に青竹をびっしりきれいに敷き詰め、その上に見事に鉾を誘導していた。
祇園祭は町内対抗レースみたいなもので、金持ちの町衆が互いに張り合っていたから、今日の煌びやかな巡行が実現したのだ。
辻回しのやり方にしても「よそさんとは違う」方法にこだわっていて、この小さな積み重ねが祭りを面白くしているのだ。
24日には後祭りの山鉾巡行があって、190年ぶりに鷹山が復活する。
大阪では天神祭が25日にあるのだが、船渡御は今年も中止(花火もなし)で陸渡御のみとなる。また住吉大社の夏祭りも神事のみの実施だという。
京都は例年通りのやり方で復活させたのに、大阪はやらないというわけなのだ。
もともと天神祭を祇園祭と並べて論じることは間違いだ。
天神祭は過大評価され過ぎている。
そもそも大阪の北の方だけの祭りでしかなく、市内でも南部の人は興味関心を持っていない。
また町内対抗ではないから見るべきものに乏しい。
船渡御のやり方も地盤沈下で船が橋の下を通れないなどという、理由になっていない「理由」で変更してしまって久しい。
気鋭の論客、御田寺圭の新著『ただしさに殺されないために』が大和書房から出た。
能力主義を差別だと切って捨てる姿勢がなかなか面白い。
部落差別や出身地、思想信条などで差別するのは許されることではない。
これは資本主義社会の当然の原則だ。
そんなことしてたら金儲けができないからな。
しかし御田寺は、仕事が下手くそな労働者とか、要領が悪くてみんなが出来る業務すら四苦八苦して迷惑をかけてくる連中を「能力に欠ける」として左遷したり、低賃金のままにすることも差別だというのだ。
「無能への差別を完全になくしてしまえば、この社会を運営するためになくてはならない『だれもやりたがらないが、しかしだれかにやってもらわなければならない役割・仕事』をだれにも割り当てられなくなってしまうからだ。
だれかがその役割を引き受けなければ社会の維持が困難になってしまうそれらの仕事を、独裁国家のように強制動員によってまかなうのではなく、ごく自然な選択の結果として演出しながら、個人に引き受けさせるには『能力による序列化』が不可欠だ。」
こういう議論は随分前からあったよなあ。
全共闘の連中は『帝大解体』などと自己否定まがいのスローガンを掲げていたし、毛沢東が引き起こした文化大革命では学力試験による大学入試を廃止したりしていた。
こういう試みは悉く失敗したよなあ。
文化大革命などは、国全体が、大混乱に陥り2000万ともいわれる死者を出してしまった。
ただ話として御田寺の言っていることは間違いではない。
フェミニズムへの批判も面白い。
御田寺はフェミニズムが言語能力や競争に長けたインテリ女のための運動だという。
「先進的で豊かな社会に生きる、個人として優秀で生産的な女性である私の権利運動にすぎないフェミニズムの主張を、企業社会においてとりたてて優秀でない一般的な女性が、なんとなくよいものであると信じ込んでしまうことも多い。
(中略)
高い学力や知的能力を持つジェンダー論者や社会学者が唱える『ミスコン廃止論』は容姿によって女性を評価するコンテストが、女性から主体性を奪い、男性に奉仕する道具として見せるものだと批判する。
(中略)
だが、学力の高い自分たちにとって有利なルールを、あたかも万人にとって、「公平』であるかのように主張するのはいささか誠実性にかけている。
(中略)
知的能力や認知能力に長けているわけではないが、しかし対人的な魅力(あるいは性的魅力)の高い女性が、それを活かして経済力を獲得したり、だれかのパートナーとなれたかもしれなかい可能性をーそのようなものは差別的で不道徳で不公正な価値基準であると非難することでー閉ざし、代わりに「誰もやりたがらないが、しかしだれかにやってもらわなければならない役割・仕事』に従事する労働者として参入させる道筋をつくった。」
なるほど、勉強なんかできない女もたくさんいるんだから、いろんな道がないといけないだろうという主張で、特に異論はない。
今日は嫁と南座に出向いて、OSKの100周年『レビューin KYOTO』を見た。
以前松竹座の『春のおどり』は2008年に見たのだが、その時は桜花昇ぼるがトップだったが、今日パンフを見るとさすがに退団していて、今は講談師になっているとのことだ。
祇園祭の巡行当日でもあり、3時からの午後の部も超満員、実にありがたいことだ。
2008年に松竹座で久しぶりに『春のおどり』が上演となったのだが、会場は空席も目立だっていた。
それが南座は超満員❗️
最後のトークでトップの楊琳がいみじくも「3年ぶりの南座で、満員のお客様、感無量です」と語っていた。
ほんとうに御同慶のいたりだ。
第一部は夢枕獏の『陰陽師』なんだが、やはりなんといってもOSKの真骨頂は第二部のダンスだ。
黒タイツでの一糸乱れぬラインダンスに『さくらの国』の合唱はいつ見ても心打たれる。
わけのわからないコロナ騒動で、各地での公演が中止を余儀なくされ、発表の場を奪われて、生活基盤も破壊されてきたわけだから、ようやく巡ってきた檜舞台に感慨もひとしおだろう。
来週の月曜日まで三ノ宮駅前の神戸阪急で古本市をやっている。
前にも書いたがこれまで3月末に三ノ宮からポートライナーで一駅行ったところにあるサンボーホールで古本市があったが、今年は中止となった。
神戸阪急の催しはその代わりみたいなものかもしれない。
しかしやる方の気持ちの問題はどうなんだろうか。
三ノ宮駅前の阪急百貨店なんだから、神戸の文字通り中心地だ。
東京でいえば銀座、大阪なら梅田か心斎橋筋だろう。企業なら本社所在地を見えをはって中心地に置きたがるものだ。
そのためリモートワークで十分業務は回っていくのに、高い賃料を負担してまでオフィスを梅田に置いている会社がたくさんある。
古本市を主催する古本屋にも「三ノ宮のまあ真ん中で店を出せた❗️」みたいなへんな上昇志向があるのだろうか。
それとも「そら、なんぼサンボーホールは三ノ宮に近いゆうたかて、やっぱりモノレール乗らんなんよって、お客さんには足枷になってまう」という動員を考えた実用的な決断なのか。
いずれにせよ老後のありあまった時間を有意義に使う一つの試みとしてありがたいことは間違いない。
中心部の交通便のいい場所に、居心地の良い空間があって、すぐにくつろげる美味しい喫茶店や食堂も近くにいくらもあるというのは素晴らしいものだ。