Welcome
古本屋日誌
雑誌「文藝倶楽部」は明治時代にたくさん出ていた雑誌で、明治35年の4月号は「京都と奈良」の特集号だ。
この中に祇園祭の話がある。
「然かも宵山とて、祭りの前夜の賑はひ類なく、大路小路の別なく、家々の檐には一様に神燈を掲け、青簾掛け、美しき敷物敷き詰め、金屏風、銀屏風、狩野の墨絵もあれば、四条派、円山派の彩画もあり、中京のこと、相競うて、秘蔵の屏風競進会。」とある。
最後の「競進会」とは耳なれぬ言葉遣いなんだが、「競って展示する」という意味の当時はよく使われていたことばだ。
祇園祭は各町内会対抗の、美や絢爛豪華さ、金のかけ方を競うレースであることがよくわかる。
一見鉾の方が山より大型だし目立つようだが、実は〇〇山の装飾はすごいんだとか、山や鉾には搭載していないんだが、宵山で展示している〇〇は大変な美術品だということがいくらもありそうだ。
突然閉店してしまった、上六にあった「一色文庫」のマスターと坪内祐三の話をしたことがある。
古本屋で、ある著者の話をするのは、客が好きな作家だということだし、そのことはマスターもわかっている。
だが彼としてはどうしても容認できない思いが強かったのだろう、かなり強い口調で坪内の振る舞いを批判した。
「あの人ね、古本屋仲間のところへ来て、何人かの古本屋とテーブルにつく段になって、いきなりですよ、いきなり、横にいた、まるっきり見ず知らずの古本屋の親父をつかまえて『はい、これ』てコートを差し出したんですよ。信じられます❓」という。
確かに初対面の、しかも歳上の人間にいきなりコートを渡して、かけて来いというのは礼を失しているだろう。
そうなんだけど、古本屋にとっても、尊敬する評論家のことだし、また作家というのはどこか気難しく、非常識なところも備えているものだろうから、俺はそんなに不思議なことには思わなかったな。
一色さんにはそういう繊細なところがあって、客でも、尊敬する作家でもやはり気になっていたんだろう。
COTOGOTOブックスという出版社から『西村賢太追悼文集』が出た。
200ページ余りで各出版社の編集や親交のあった小説家、古本屋、一般の読者が各々の視点で賢太を論じている。
西村は、いろいろな出版社と揉め事を起こして、切られたり、音信不通となったりしていた。
先日出た『本の雑誌』6月号ではその編集者たちの座談が掲載されていた。
ここではあからさまではないものの、何が原因で賢太と揉めることになったのかがわかる話があった。
それは単行本が出た際に、著書の賢太に50部程度、献本される。
これは彼が世話になった人や評論家や親交のある作家に送るためのものなんだが、その本のコンディションチェックをひつこくやるというのだ。
帯が切れたり、傷んだりしていないか、カバーにスレがないか、このあたりはわからなくもない。
しかし賢太のこだわりはそんなもので済まず、カバーの印刷のムラがゆるせなかったり、造本の少しの歪みなどにまで及んで、それを各社の担当を交えて長い時間使い細かく調べるというわけだ。
こんなくだらない、賢太の単なるわがままによく付き合うものだよなあ。
今回の追悼文集でそのあたりがさらに赤裸々に語られることを期待していた。
KADOKAWAの山田剛史の文。
「こちらのミスも、賢太さんの甘えや理不尽も、お互いに思うところもありました。仕事上のことでは大変厳しく、小説や書籍に対する妥協は一切ありませんでした。その一方で、〆切がギリギリになったり、時には延期したり落としたり、音信不通になったりもありました。
また装幀やネームも一切こちらの意見を聞き入れませんでしたし、後年は売れ行き自体も芳しくありませんでした。
各出版社も必ず一度はもめて、そのまま関係性が切れてしまうこともありました。私自身、何度か罵倒を受けましたし、『これが貫多か』と実感したものでした」
という程度で細かい揉め事の原因や経緯は書いてない。やはり死んだ人を鞭うつのは作法としてなじまないのかなあ。
今日は京都に出向いて自転車の朝日が全国で運営しているレンタル自転車を使ってみた。
神宮丸太町で下車してすぐ南の駐輪場の2階にレンタサイクルの自転車が並んでいる。
料金は初めの30分が130円で以後10分ごとに100円が加算され、上限は1800円だ。
すべて電動なので坂の多い京都の街中は好都合なのだ。
とりわけ、銀閣寺道から西に伸びる今出川通は、幅員もあり、傾斜もかなりある上に、直線区間も長く、東一条までの相当な距離をひたすら下るので、極めて爽快だ。
ただ問題は駐輪場で、繁華街にはそんなものはないから困ったことだ。
とりあえず二条通りから東大路に出て、北上して、お客さんのところに伺いよもやま話。
津田書店の津田周一さんが亡くなったを聞いた。72だそうで、2月に検査入院して間もなくのことで、中皮腫だったという。
彼の父親は美術書専門の大阪国際書房を経営していたそうで、その社員だったのが今もあるシルヴァン書房の岸本さんなんだそうだ。
俺は津田さんとは随分前の学生の頃に百万遍の古本市でお会いしことがある。
津田書店は毎回たくさんの辞書や絵筆、児童書、巨大な聳り立つ文庫展示台を持ってくることで有名だった。
その中に三省堂の『新明解国語辞典』の第四版があって、2刷、4刷、30刷でそれぞれ語釈も少しずつ違っていて面白いから、3冊ともレジに持っていった。
津田さんはじろりと見て『これみんなおんなじ本やで』という。
『いや、いや、いや、全然違う違う。動物園の説明はおんなじやけど、マンションの説明なんかは4刷になるとちごてるんですわ。30刷はどっちも変わってもうてるし』と言ってみたけどあんまり興味は示されなかった。
古本屋といっても本の歴史は古代エジプトから3000年は優に超えるから、基本的には店主よりも客の方が圧倒的に知識は豊富だ。
だから『これみんなおんなじ本やでも』などと言って欲しくなかったなあ。
今月のちくま文庫に宇田智子の「本屋になりたい」が入っている。
著者の宇田は元は東京のジュンク堂に長く勤めていたが那覇に移住して、牧志市場の近くで古本屋を始めた人物だ。
扱う本は沖縄本で、なるほど牧志市場の近所なら観光客が一度は訪れる場所だし、「せっかく沖縄に来たんだから、ちょっと深掘りしてみよか」と沖縄本を手に取る人もいるだろう。
何より大都会の本屋といってもさまざまな沖縄本を扱っているところはほぼないだろうから、「ここでしか買えないな」と購買意欲に駆られるというものだ。
なかなか商才があるよなあ。
しかし驚くのはそのことではない。
牧志市場が建て替えとなり、隣の店舗が空くので、そこも借りて、店舗面積を拡大した。
「ひとまずテーブルの上に本を並べて「100円」と値札をつけた。
すると、いままで素通りしていたまわりの店主や市場のお客さんが足をとめて、本を買ってくれるようになった。
時代小説や自己啓発など、これまで店に置いていなかったジャンルの本がよく売れて、需要があったのに長い間応えられていなかったことがわかった。」
店舗売りでは時代小説や、啓発本、ベストセラーが売れることなど誰でもわかっていることだ。
それすら知らなくて10年も店舗を構えてメシが食えていたことは驚きだ。
つまり商売なんか甘いし、世の中はその程度のものだということがよくわかる。