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古本屋日誌
大阪の大規模な古本市は春と秋の天王寺さんのやつと秋の天神さんのものだ。
いつも気になっていたのが、100円均一台に出してある本の出どころだ。
古本市の前に参加店に呼びかけて、適当な本を出してもらうのだろうか❓
それでは20近くもある参加店だし、なかなか足並みも揃わず、手間がかかりそうだ。
またレジで会計をする際も「この本はどこそこの古本屋のもの」みたいな確認はせず、冊数を数えているだけ。
つまり本の所有権は古書組合にあるみたいなやり方なんだよなあ。
先ごろ知り合いの古本屋に聞いてみたら次のような話だった。
「それはな、組合の市あるやろ、あっこでな、競り落とした本の束んなかで、要る本だけ抜き取ってな、どないしょうもないやつはな、またひぼで結えてな、次の市に出すんや。
上手いこと誰か買うてくれる時もあんねんけど、なかなか売れへん時もあるわけよ。
そういう本はな、潰しにしてほかしてまうことも多いねんけど、もったいないやろ。
せやさかい、俺はな、大阪古書会館の5階に古本市用の100均本を積んだあるとこあんねん。そこへ寄付するんやわ」
なるほどほかすよりかは、いいよね。
また、われわれ業者が「こんな本要らんわい❗️」見捨てたものでも、お客さんの目でみたら、是非とも手に入れたいということもよくあることなのだ。
古本の世界はお客さんの方が圧倒的に商品知識を豊富に持っているという特殊な世界だから。
このところリタイアしてから古本屋の店舗を開業する人がかなりいる。
若い頃から本が好きで時間を見つけては古本屋や古本市に通い、蔵書も数万という人が多い。
普通の古本屋、つまりプロのそれの場合売る本は業者の市で仕入れることも多いから、焼けがかなりあったり、歪みや帯の欠損があったりもして、それなりのコンディションだ。
しかしリタイア組の場合は、全部自分の蔵書で、一度も人手に渡ったこともなく、保存にも気をつかい、帯やカバーもとてもきれいだ。
ただ多くの場合、店は自宅を改装してやっていて、目立たないし、客足も伸びない。
「年金があるし、ここは持ち家やさかいかまへんねん。これだけ{古本屋の売り上げだけということ)で飯食わんなんなったら、こんなもんやっとられへんけどな」
とか「ここはな、あんまりお客さんけーへんねん。ときどき吉祥寺とか中央線沿いの古本屋に遊びに行くねんけど、客もようさんくるし、そらもう全然違うで」
とか嘆く人もいる。
ただ一方で観光地にあえて出店してるリタイア組の古本屋もある。
店主の趣味は渋い文学書なんだが、観光地の店では、えほん、旅行本、山岳本、動物の本、料理本、編み物の本、時代小説や雑貨なんかも扱っている。
また座って読めるスペースを設けたり、「店主おすすめ本」と称して本のカバーの上から見えないようにラッピングした、中身は開けてからのお楽しみてな企画もやったりしている。
老後な楽しみとしての古本屋だから、自分の気に入ったものだけを細々と売っていくんだというのも素晴らしい。同好の士が集まって友人関係も広がるから、楽しみも増すというものだ。
また少し商売っけを出して、利益を追求するのも楽しいだろう。
老後の資金や時間に余裕があって、やらかすのが好きな人もいるからだ。
小谷野敦が中央公論から『徳川時代はそんなにいい時代だったのか』を出した。
小谷野はだいぶ前に『江戸幻想批判』を出しているので、その続編だ。
徳川時代は身分で将来が決まってしまっていたから、低い身分に生まれてしまったら、いくら才能があっても埋もれたままであった。
公衆衛生の観念も発達していないし、医療技術も心許ないから、一旦重い病にかかってしまったら、あっけなく死んでしまう。
世評高い渡辺京二の『逝きし世の面影』はとんでもない悪書だという。
渡辺は徳川時代の大衆が、みな笑顔で自足していると当時日本を訪れた欧米人が書き残した記録によって論じる。
小谷野は笑顔で自足しているのは、いくら努力しても無駄だとわかっていて、向上心や探究心の持ちようがないからだと批判する。
なるほど納得できる内容だ。
俺もだいぶ前だけど結核にかかり、40日余りも入院を余儀なくされた。徳川時代なら間違いなく死亡していた。
才能のことも、現代は特段才能などなくても大丈夫というところもいい。
本屋に並んでいる本は、大半がくだらないものだし、映画もどうしてここまで愚にもつかないものが制作できるのか、いぶかしく思うこともしばしばある。
でも朝から夕方までの仕事でクタクタに疲れた労働者が息抜きに求めるものは、あの程度の時代小説やテレビドラマであるわけだから、その切実な要求に作家が、真摯に答えた結果なのだ。
いわば工場でジュースやビールがベルトコンベアで、目にも止まらぬ早技で生産されるように、小説も映画も判で押したようようなものが量産されている。
そういう大きな需要がある社会は、バカを甘やかしてくれる社会なわけだから誠にありがたい。
俺もあやかりたいと思っていることは、いうまでもない。
本の仕入れ先を広げたいのはどの古本屋も考えることだ。
本はあるところには、いくらでもあるものだ。
逆にいくらたくさんの人が住んでいる地域であっても、ないところはまるでないものだ。
うちが扱っているような本を持っているとなれば、学生、大学や高校の先生といった教育関係者、医者、整骨院、マッサージ師などの医療関係者、テレビ局、新聞社、雑誌社などの報道関係者となる。
その中で以前から大学の研究室には営業に行きたいと思っていた。
ただ、これまで何人かの大学の先生のお宅に買い取りに出向いたことがあるのだが、本棚に並んでいる専門書はどれも値段の張るものなんだが、これまで扱ったこともないものばかりで、査定のしようがない。
となれば学生から買い取りたいと思うのだ。
以前京都大学の入学式が、西部講堂であった際に、東大路に面した階段の下で、司法試験予備校が入学案内のチラシを配っていたのを思い出した。
といっても俺の記憶にあるのは40年も前の話だから、今はどうなってるのかわからない。
でも京大本部、時計台前の正門なんかで学生相手に「ご不要の本をお譲りください」てなチラシを配ることは営業上意味があるように思える。
ただ自分のことを考えても、わけのわからんチラシなど、普通は受け取りはしないから何ほどか工夫は必要だろう。
その辺をどうする、ティッシュをチラシに付けるとか、マスクをサービスで付けるとか、今思案中だ。
『本の雑誌』に日下三蔵が自宅の本を処分して家を片付ける話を連載している。
俺が読んだのは今年の3月号までなので、今も連載してるからは不明だけどね。
日下は自宅にとんでもない量の本を溜め込んでおり、床から本の塔が一面にそびえたち、床が見えないのは当然のことで、置いてあるテレビやオーディオも埋もれて所在不明だという。
面白いのは彼が寝ている布団の周りにも塔が並び立ち、それぞれ人間の胸の高さくらいはあるのだというのだ。
東京は震度4くらいの地震は珍しくない。
もし何かの拍子に塔の倒壊がおこったら、それこそドミノよろしく、何も知らずに船を漕いでいる日下を直撃するだろう。本人もその危険性は承知していて、いつもは必ず「うつ伏せ」に寝ているという。
バカだよなあ。
そんなもん古本屋にさっさと売り払って天下晴れて堂々として寝たらいいだろうよ。
日下は時に仕事でホテル住まいのことがあるそうで、その時はちゃんと仰向けに寝るという。
そして仰向けに寝ている時の気持ちを「背徳感」を感じていると表現しているから、笑わせるぜ。
いけないことをしてしまっている思いにとらわれるというのだ。
日下は周りの本から「うつ伏せに寝ろ、寝ろ❗️」と暗示を受けて、そうしないと本に申し訳がたたないと思っているわけだよ。