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古本屋日誌
今日は晴天で気温も高く、風も穏やかで久しぶりに三ノ宮から元町をぶらぶらした。
実は今日1月15日は私立中学の統一入試日であり、大学受験の共通テストの初日でもある。
以前は各進学塾が中学の構内に陣取って「激励」と称する活動をしていた。
簡易カイロを受験生に手渡したり、握手して勇気づけたり、なんだが子どももそれを期待している場合があった。
しかしこのところのコロナ騒動で中学の方では、「激励」は感染リスクを高めるとのことで禁止したり、激励に来れる先生の人数を2人までに制限したりしている。
もちろん受験生の中には「激励」など煩わしいだけで、静かに受験さしてほしいと思っている子もたしかにいるんだが、少数だ。
大多数はそういう大袈裟な騒動に好意的だ。これは自分が周りから注目されていたり、気遣われていたりするのが心地いいからだろう。
だいたいみんなから自分が注目されて主人公である状況なんかそうそうあるものではない。
かつては入試の合格発表の場はそれに近かった。万歳をして涙に咽せんだり、親と抱き合ったり、胴上げも行われていた。
ところが今はパソコンにコードを打ち込んで合否を確認するだけになってしまいなんとも味気ない。
合格発表発表の時間にはみんなが一斉にアクセスするのでなかなかパスワードを打ち込むところまでいけない、これがもどかしさに拍車をかける。
津村節子は芥川賞作家で、吉村昭の嫁さんだ。以前吉村が癌になって塗炭の苦しみを味わい最期は自ら呼吸器の管を引き抜いて尊厳死を遂げた様子をつぶさに描いた本を読んだことがある。
そのリアルに達する津村が昭和10年ごろの吉原遊郭を描いた作品が「石の蝶」だ。
おりから世界大恐慌の嵐が吹き荒れる中食い詰めて4年の年期で吉原に売られる若い女の話だ。
小見世と呼ばれる少しランクの落ちる女郎屋なんだが売れっ子になると一月の売り上げは250円くらいになり、そのうち80円くらいが女の取り分になる。
そこから衣装代や日用品代や飲食費が引かれるのだが、それでも女工の月収22円や百貨店員の24円からしたらかなりいいという。
それはさておき東京のカフェーの女給の話が面白かった。
カフェーは「お歩きさん」という新手の戦術で遊郭に出向く客を奪おうとしたという。
メリンスの風呂敷包の女が街頭に立ち、「お茶でも飲みにいらっしゃいませんか❓」と店に連れ込む。
女は下履きをつけておらず、ボックスの中で数人の客の膝の上に身を横たえる。
客は各自女の肉体の思う部分に手を触れる。
女の嬌声がこだましてこれが「オルガンサービス」なる名前をつけて評判となっているというのだ。
なるほどね、カフェーのいかがわしさはこれまで本にも出ていたが、具体的なサービスに触れているのは珍しい。
さすがは津村節子だよなあ。
このところ忙しくえべっさんに行けなかった。
幸い今宮戎は16日まで福笹の授与があるので嫁と行ってみた。
人出も、福娘の並ぶ窓口に少しできる程度にはあって去年は寂しいものだったことを思うと幸いだ。
窓口は南北方向にずらりと並んで入るけれど、やっているのは5つくらいだ。
その周りの閉まっているブースの窓ガラスには「熊手を売っているところがありますが、当神社とはなんの関係もありません。ご利益もありません。右奥の店の熊手も関係ありませんし、ご利益もございません」と書いた紙が貼ってある。
えべっさんもこのところ動員力が落ちているんだろうか。それに加えてバカバカしいコロナ騒ぎもあって売り上げが鈍っているのかもしれない。
例の裏参りのスペースは賽銭箱と監視カメラはあるものの、木槌か木板などはない。
やはり張り紙があって、感染予防のために木板は撤去している。また、えべっさんは耳が悪いとのことで大声で頼み事をする人がいるが、それは俗説だから、心を込めてお願いをすればよいなどとある。
西宮のえべっさんは本家本元なんだろうが、このところ福笹は本物の笹ではなく、プラスチックのやつだ。
たしかにこれなら一年中緑緑して青さは保たれる。
しかしなんかご利益が薄れるような感じがするなあ。それにプラスチックなら去年の笹を神社に持っていく必要もない。
中公新書ラクレから井上章一との「イケズな東京」が出た。
井上は明治維新のちのブルジョアジーが建てた大型建築を考察して天守閣に類似した塔を持っていることを指摘している。
特に三井が建てた兜町の三井組為替座という銀行の建物なんだが、5階建てで2階まではよくある西洋建築の形になっているのだが、それ以降は全く違っているという。
「天守閣をまねたとしか思えない塔屋が、おかれていた。天守閣をいただくかのような銀行が、当時の兜町にとつぜんあらわれたのである。」
井上は明治維新の際に薩長に金を提供したのが三井をはじめとするブルジョアジーだったとし、彼らの自信と自負の表れがこの大胆な天守閣だったというのだ。
成城大学の篠川賢が中公新書から「国造」を出した。
古代史では邪馬台国の研究は雑誌が出るくらい人気の研究テーマだが、国造の研究となると一般書になることはない。
微に入り細を穿ち大化の改新によって国造制度が変遷をきたしたことを述べる。
こういう本を読むと大学もあってもいいよなと思える。
バカで無能な教授の生活を支えるためだけにほとんどの大学は存在しているわけなんだが、たまには評価できる研究もあるということだ。