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古本屋日誌
このところ牧村史陽の講談社学術文庫の「大阪ことば事典」が立て続けに売れている。
大阪弁のさまざまな単語をアクセントも表示し、例文や挿絵も添えてまとめた浩瀚な事典だ。
元は1200円くらいで売れていたがこのところばったり売れなくなり、その反面お客さんからはいくらでも買い取りがあって在庫が積み上がっていた。
ネットで調べてみたらNHKの新人落語大賞なるものに女で初めて桂二葉という人が選ばれた、それで1月5日のNHKの「おはよう関西」という番組で取り上げたところ桂二葉は参考にする本として「大阪ことば事典」をあげていたことがわかった。
なんでも正しいアクセントも記載してあるので素晴らしいのだそうだ。
たしかに大阪弁のアクセントはかなり変わってきていて、それは笑福亭松鶴や仁鶴の落語と桂米朝のそれを聞いたらすぐわかることだ。
それはさておきマスコミの持つ力は相変わらず大したもんだ。われわれも大いに販売にいかしたいものだ。
ナショナルの松下幸之助が例の二股ソケットを発明したはものの、売れずに困って四天王寺に露天を出した話はこれまでもよく語られていた。
従来の話は折りから通りかかった水戸の三木啓次郎が
「それは何を売ってんのや❓と幸之助に話しかけてきた。
幸之助は
「これはえらい便利なもので絶対売れる思いますねやが、資金が苦しゅうて苦しゅうて弱っとりまんね」というようなやりとりがあったとする。
しかし北川央は四天王寺に露天を出していたところヤクザにからまれてしまった。そこへたまたま居合わせた三木啓次郎が助ける形になって付き合いが始まったとするのだ。
幸之助は二十歳を越していたし、縁日もそうなんだが寺社の香具師はヤクザが場割りをすることを知らないはずはない。
そこへ勝手に店を出したら揉めるのは当たり前だ。しかし一方で人情紙風船の今日とは違い、すごまれた後で事情も聞かれて、おそらくはまともな身なりすらしていなかったであろう幸之助は大いに同情してもらえたであろうことも間違いない。
大阪城の山里曲輪から北に出て内堀にかかる橋は「極楽橋」だ。
この橋はただ木を平行に並べて堀をスムーズに渡れるようにする通常の橋梁ではなく、橋の上に豪華絢爛な建物がある構造なのだ。
しかも豊臣時代に作られたこの橋は、竹生島に移築されて現存して国宝となっている。
さてこの橋が豪華絢爛な作りとなった原因を北川央は
「秀吉が城の北側にある弁天島を通る京街道を整備したため、大阪城の北側は京都から大阪に入る玄関口となったので、橋梁も豪華なものにしたのだろう」と予想している。
ただ今はもう亡くなったのだが南田辺にあった「ムラタ書店」の店主が別のことを言っていた。
「大阪城の極楽橋は石山合戦の戦死者を外へ運び出したとこやからそう名付けたんや。せやから内堀を越えて城の外に出る門は青屋門ゆうんや。これを青ものをあつこうてる店があったよってそないゆうんやゆうてる人おるけど、そんな本丸のすぐんとこに八百屋なんかあるわけないやろ。死んだ人間の青ざめた顔を表してるんや」
新潮新書の北川央「大坂城」には1931年に現在の天守閣が再建された経緯が書いてある。
当初大大阪誕生を祝うものとして、天守閣ができたという説明がされていた。
ところがこのところは市長の関一が昭和天皇の即位記念として天守閣の再建を陸軍に打診し、さすがに天皇絡みの案件では陸軍も袖には出来なかった。
つまり関は天皇を利用して天守閣再建を成し遂げたといわれるようになっている。
これに対して北川央は帝都復興院総裁を務めていた後藤新平が天守閣再建を提言し、後藤は関一とも直接会っているのでその後押しがあったんだとの説を唱えている。
なるほど真偽の程はともかく、これまでにはない考えを曲がりなりにも提示しているのは立派だよな。