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古本屋日誌
今日は甲子園でジャイアンツ戦があり、4番大山のホームランで逆転勝ち。
6回裏に菅野のフォークボールをレフトスタンドに打ち込んだ。
内角に切り込んだ落ちてくるボールで、よくスタンドまで運べたものだ。
それにしても、解説の掛布の発言にはいつもながらイライラさせられる。
3番の森下に関して掛布は「強く振ってるが、速くは振れてない」「だから外のボールを捉えきれない」と言った直後、森下が外のストレートを流し打って、ライト前ヒットとなった。
ツーストライクに追い込まれたあとのバッティングとして、極めて自然だが、掛布は何も言わない。
次の大山の打席で、菅野は全て変化球を投げた。
スライダーやフォークで、ストレートはまったくなかった。
掛布はそれを見て「こうなったらもう失投を逃さず、打っていくしかないです」
「その失投を捉えられるか」と発言した。
大山はストレートを投げてこないのを見て、スライダーやフォークをファールしていたから、そこへまたフォークを投げたのは失投なんだろうか。
でも内角に切り込んでくるフォークだし、とても失投といえるようなボールではない。
ミスタータイガースなんだから、もっと意味のある発言をしてもらいたい。
スペンサートレイシーが主演の『折れた槍』は1954年の映画だ。
社会派の西部劇で、トレイシーが経営する牧場の牛が銅山からの汚染水を飲んで死んでしまう。
トレイシーは法に訴えて操業停止を求めようかとも思うが、それは迂遠なことだ、汚染水をすぐに止めないといけないと思い、息子たちとともに鉱山に乗り込んで施設を破壊する。
もちろんこれはやりすぎだとして裁判でにかけられて、トレイシーはイライラするのだが、この作品の白眉は親子の断絶だ。
トレイシーの長男は毎日牧場の仕事を16時間もやらされて、父親似不満を募らせて含むところがある。
親父はそれをまるでわかっておらず「お前はおれと同じことタイプだと思っていた」とか「そんなに牧場の仕事がイヤなら、出て行ったらいいだろう。俺がそうしたように」と言うのだ。
血を分けた親子のとはいうものの、親は子どもを理解できない、理解する能力がないことはしばしば起こる。
このところ梅雨明け十日通り、極めて暑いし、雨が降らない。
タイガースは去年までのエースで、開幕投手でもある青柳を立てて下位チームに負けた。
予想通りやる気のない展開だな。
そこで思い出すのが、帝国陸海軍のことだ。
一ノ瀬俊也は、講談社現代新書の著作で、帝国陸海軍の将兵がサイパンやグアム、硫黄島で玉砕を強いられた際の心理をあれこれ書いている。
圧倒的な物量で攻め上がってくる米軍を前にしたとき、将兵は「こら、どない考えても不公平、不公正や」と感じていたという。
つまりうちとこは弾薬も乏しいし、飛行機も旧式だし、燃料も、数も足りない、だのに、米軍は何もかもが桁違いで、それをかさに攻めかかってくる。あまりにも酷いというわけだ。
この考えの根底にはアメリカにしてもイギリスにしても、全世界に好き勝手に植民地を広げて、やりたい放題してる連中に過ぎないという批判があるのだ。
そもそもの根本的に不公正な輩だよなあということだ。
そういう許し難い、不公正、不公平な帝国主義者ども(米兵のことだ)は許さない、命がけで戦うというスタイルになっていったのだ。
タイガースに戻ると、その戦力は、酷いものだ。
特に打つ方はまるでダメだ。
佐藤などストレートに詰まる2軍レベルの選手だし、ノイジーにしても、もう一人の外人にしても、到底期待できるものではない。
それに比べてカープなんかピッチャーも、素晴らしいし、打つ方はタイガースの10倍くらいの破壊力を持ってるし、またちょっと前に3年も連続で優勝して、また今年も優勝しようというんだから、まさに、やりたい放題だ。
カープはつまり完全にアメリカ帝国主義なのだ。また、イギリス帝国主義でもある。
こんな不公正なカープに対して、弱小で、力もなく、才能もない、タイガースが挑もうというんだから、土台無理がある。
だから、タイガースが負けてしまうのは、全然不思議ではない、当たり前の話だ。
それでも、見てる方は、ストレスになる。
他人がやっていることなのに、その悪影響をこちらが被るのは根本的におかしな話だ。
そんなことくらい、勿論よく理解しているのだが、それでも、何かの拍子に、イライラしたり、気が滅入ることもある。
こういう時は仕事に精出すに限るね。
まず、お客さんのところに買い取りに出向いて、いい本を譲ってもらう。
この時にタイガースを使うことができる。
お馴染みのお客さんは、俺がタイガースの試合を見に行ってるのをよく知ってるので「またあかなんだね。」とか言ってくるから、「せやねん、もう毎日毎日が地獄のようでたまりませんわ。(もちろんタイガースごときで、おれの日常が変わったりするわけがないけど)」と応じる。
すると「気の毒やさかい、ここらへんのやつ持って行ってええよ」と気を遣ってくださる。
実にありがたい。
昨日から谷町四丁目の大阪古書会館で古本市。(明日まで)
また、阪神百貨店では月曜日まで、レコードや絵葉書、パンフレットなどと一体化した古本市を開催中だ。
ここの古本市にはリトルプレスと称する少部数印刷の本やパンフを扱う本屋も参加している。
東京の、閉店したキャバレーを扱った小冊子、ラブホテルの写真集、老朽化して味が出てきたビルの写真集など商業ベースにはのりにくい本を扱っている。
どんなジャンルにも興味を抱く人はそれなりにいるし、大都会であればその人数もかなりになってくるわけだ。
とりわけ、東京は人口が巨大なので、以前から極端に専門店化した店が色々あった。
近代文学の専門店なら、大阪にも名古屋にもあるが、ビートルズの海賊盤専門店、万葉集関係の古本に限った古本屋、プロレスの本だけを置く古本屋などが東京にはある。
しかし、これまで大阪の古本屋はあまり専門店化しておらず、漫画から雑誌、文庫、文芸書、哲学書、実用書まで幅広く扱う店ばかりだった。
今回阪神百貨店に出品しているリトルプレスが、扱う本を見ていると、大阪でもそういうマイナーな趣味を扱う本屋でもメシを食っていける時代になったんだよなあという感慨に浸ることができた。
井上章一と工藤美代子の対談本の後書きを井上が書いている。
この一文は井上のスタイルがよくわかる文章だ。
なんでも昭和天皇の手相がはっきりわかる写真をある写真家が撮影した(新年の一般参賀の時、撮影に成功したのだ)のだが、その写真をグラビアで使おうとする出版社はないんだというのだ。
べつに手相がわかったからといって、どうということはない、所詮は「当たるも八卦、当たらぬも八卦」たんなる迷信でしかない。それにもかかわらず、忖度が起こるのだ。
これについて井上章一は
「天皇制は民族的な迷信の上に、成り立っている。だから、迷信が取りざたされること自体を迷惑がる。そこへの配慮が、メディア関係者にはあったということなのかもしれない。」と書いている。
俺には井上章一は、手相なんかは迷信だよな、天皇制もおんなじなんだと主張しているようにしか見えない。
また井上は、この本の前半で、京都の人にとって、京都と言える範囲は御池からせいぜい丸太町通くらいまでなんだという。
つまり御所なんかはぜんぜん京都の範囲に入っていない、天皇なんか京都人でもなんでもないんだと軽侮する人たちが京都にはいるんだということだ。
(井上は学生の時京都の中心に住む杉本秀太郎の家を訪ねたことがある。そのとき杉本は「自分、どこから来たんや❓」と井上に尋ねた。「嵯峨です」と答えると杉本は「あー、あそこからな肥えくみが来とったわ」と井上を軽侮する発言をした)
なるほど、祇園祭の町衆にとってのプライドからすれば、天皇の権威や威光なんかナンボなもんじゃいという感覚があるということだ。
そうなのか、京都の人たちの差別意識はなかなか徹底しているよな。
大阪を金儲けにしか関心がない街と軽蔑してさげすむだけではなく、天皇についても身内とは思ってない。
それくらいしっかりした価値観があるからこそ、祇園祭は素晴らしいのだなあ。
さらに井上は、例の東北の大地震の後、美智子さんが慰問に行った話をする。
なんでも彼女はピアノを持ち込んで演奏したのだが、周りのスタッフがその準備やなんやかやで大変苦労した。
「しんどい旧家に嫁がはったわけじゃないですか。しきたりやら、ならわしやら、多分うんざりされることもあると思うんですよ。ひょっとしたら『ピアノぐらい、わがままを言わせてくれ』という思いがあるのではないでしょうか」
つまり井上によれば美智子さんの慰問は彼女自身のストレスの解消という面もあったというわけだ。
さらに続けて井上は「これで指に覚えが出来てくると、押し売りがはじまる。『君、今度結婚するの❓披露宴やるの?よっしゃ、おっちゃんがピアノ弾いたる』(笑)
たとえば、若い研究者に対して、そういういやらしい権力者になるわけです。美智子さんの気分が分からなくはない」
というわけで、美智子さんはストレスの発散に加えて、いやらしい権力者にもなっているというのだ。
皇室などという、個人の自由が奪われたような存在になれば確かにストレスも溜まるだろう。
身分制度が存続することで、実は高貴な人自身を抑圧しているということだ。