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古本屋日誌
2000年1月に起きた、日能研関西の過労死事件のことだ。
課長だった酒井は部下の掌握、指導といった管理職の業務は不慣れで、性格的にも向いていなかったと思うのだ。
彼はそもそもゲームや碁、面白い本が好きな凝り性なところがあった。
アウトドアはダイビングやスカイダイビングに興味はあったのだが、実際にはやっていなかった。
ゲームについてはファミコンのF1タイムレースでは全国ランクがつくほどだった。
しかし苦手なジャンルに挑戦して腕を上げていこうという意欲はなく、例えば将棋にはまるで関心がなく、ヘボ将棋の俺と対局してもやる気を見せず、いやいややっている感満載だった。
歌舞伎、文楽といった古典芸能も嫌いで、正月に俺がテレビで見ていると「これは嫌だ」と言って帰ろうとするほどだった。
だから新しい、馴染みのないことをやるのは、彼にはストレスフルになってしまうのではないかと思うのだ。
酒井は1999年に同僚の国語の職員の徳永らと一緒にパソコンを購入している。(一緒に店でこうたらたくさん値引きしてもらえるのではと思ったからだ)
こうた当初は「なんか面白そうだ、テレビやらでは放送できないようなことも見れるんじゃないか」とよく期待するようなことを彼は言っていた。
しかし実際は、自宅に設置されたそれはほとんど使用されてはおらず、ワード文章には「日能研上本町校 室長 藤本」とあるだけだった。
そのくせ、会社ではパソコンを使用して図形問題を作画するように課員に伝えていて、いつの間にやらそういう技を習得していた。
機械系には強かったわけだが、その指示を課員に伝達して、しっかり統括してやらせる手練手管は持っていなかったと思うので、その点では大変ストレスがあったのではなかろうか。
直木賞作家の村山由佳が最新刊『PRIZE』を出した。
ベストセラー作家で、何度も直木賞候補にノミネートされたのに、その度に受賞できない天羽カインの話だ。
直木賞選考会の晩は、馴染みの編集者や担当を招いて宴会を催しながら、受賞の知らせを待つのだが、電話でも落選をしるや、居合わせた編集者連中をなじり倒す。
それだけでは腹は癒えず、挙句、選考委員をつかまえて、何故受賞できないのか問いただす挙に出てしまう。
筒井の『大いなる助走」みたいな話でもあり、太宰が井伏鱒二や川端康成にからんだ話も思い合わされる展開だな。
名誉を得たいとの思いは著名人に限らず体臭の間にもあまねく存在する欲求だ。そう思った大和さらに興味深い。
中学受験の進学塾の日能研関西で2000年に起こった過労死事件。
当時算数課の課長(リーダーとゆう呼称だった)だった酒井が亡くなったのだが、その時点で彼は日能研入社3年8ヶ月目だった。
その前は京都進学教室の社員であり、近江八幡校、長浜校の教室長を務めていた。
しかし長浜校時代は部下の社員との折り合いが悪く、かなりのストレスになっていた。
生徒を指導することと部下を掌握することは、もちろん全く別の能力だから、どちらにも優れているなどという人物はそうそういるものではなかろう。
酒井はその失敗を繰り返すまいと、人材管理のマニュアル本の類を買い込んでよく勉強していた。
俺が上本町校で雑誌『SPA』を持ち込んで、授業の間、控え室の机の上に置いておいたら、酒井から「これはセクハラになるものだ、気をつけないと」と叱られたこともあった。そのあたりも含めて彼はいろいろ気遣いをしていたわけだ。
電話の応対に関しても、酒井は「はい、日能研上本町校、酒井がお電話承ります」と必ずお客さん(生徒の保護者)に話しかけていた。
その頃は電話の応対もマニュアル化は多分されておらず、たいがい「はい、日能研です」とか「もしもし、上本町校です」みたいな感じだったから、酒井の応対は実にスマートな感じがした。
それだけ気を遣っていたわけだ。
当時の教室長の藤本も「酒井さんは電話でも必ず『日能研上本町校の酒井がお電話承ります』と言ってくれていて、本当に感謝してるんです」と話していたな。
上本町校の個人用の収納ボックスには缶ビールなんかも入っていて、部下をねぎらいたい時なんかには、取り出して渡していた。
「えーそんなもんまで入ってんのやなあ、びっくりしたわ」と言うと「上に立つ者、いろいろ用意しておくものだよ」と自慢もしていた。
京都進学教室時代は部下に背かれて大変な目に遭ったので、日能研ではその轍は踏むまいと努力を重ねていたと思う。
でも彼は部下をまとめて一致団結して盛り上げていくタイプには見えない。
その点では課長という職責は、確かにもう一人の課長の酒井浩がいるとはいえ、かなりストレスがかかっていたのではないか。
ポストモダンを経て、結局近代主義、つまりモダニズムに回帰している現代社会を剔抉する好著がノルベリの『資本主義が人類最高の発明である』だ。
資本主義体制へのさまざまな批判に真正面から向き合って答える本だ。
アメリカは貧富の差が著しく拡大していて上位1%が富の半分以上独占していること(これはもちろん事実だが、過去と比較したらずいぶんマシだという)、GAFAなどの独占企業の経営者などが天文学的資産を築いていること(多大な投資が初期に行われたことや、三代続けてビリオネアーであった例が少ないという話だ)などが取り上げられて、過去と比較しながら論じている。
そのあたりは特に異論はないのだが、地球温暖化を招いて、気候を変動させている現状への分析は弱い。
確かに以前に比べて貧困は著しく減り、寿命も伸びて健康な生活を享受できるように人類は進歩してきているが、その分地球環境への負荷は増しているわけで、資本主義はそれへの有効な対策を打ち出せないでいる。
中学受験の進学塾の日能研関西で2000年に起きた過労死事件。
当時算数課の課長だった酒井は50日以上休んでいなかった。当時を知る人たちに聞いてみた。
まず酒井が日能研関西に入社した1996年のことだ。ずいぶん前なんだが、当時のこの会社の雰囲気を示す話だと思う。
俺が、当時管理職だった東に「ほら、あの〇〇さんな、最近閑職に追いやられて、給料も減らされたゆうてたけど」と聞いたら「それは人による。〇〇さんは歳もいってるし、家もこうて、子どももいるから、いじめても退社せんやろと足元見られてるな」と言うのだ。
つまりあまり仕事ができないと判断した人には容赦なく干す事例があるということだ。
またこれは俺自身のことだが、1996年は新年度から3年生の授業を担当することがあった。
何回か授業してから、やはり東から「あの3年の授業、よくわからないという話で、外れてもらうことになったわ。だいたいマルス(わしのこと)に3年待たすというのがどうかしている」と言われて外されたことがあった。
これも特にここを改めるようにとか、指導が行われたわけではなくて、突然決まったことが伝えられて収入の減少になってしまったわけだ。
また1997年の3月から4月にかけての春期講習でも、上本町校の担当時間数が何の前触れもなく半減となったことがあった。
これは俺に任せて上本町校の授業を組んでいたが、大したことないので、新たに別の講師を雇ったからなんだが、この新しい先生も覚えはよろしくなく、また夏期講習からの俺の時間数は元に戻った。
これも力がないと判断した人には特に指導を入れることなく、干していくということで、当時の日能研関西はそういう会社だった可能性がある。
この社風が、酒井の心理に影響を及ぼしていたのではないかと思うのだ。
彼は静岡の掛川西高校の出身だが、入学した京都大学農学部の入学試験の問題が難しくて半分しか解けなかったと、学生時代に俺によく言っていた。
確か1979年の京大の理系は数学は6問出題されたのだが、半分も解けたら十分だし、入試なんだから合格すればいいだけのことで、点数なんかなんの意味もないと俺は思う。
しかし、彼は自分の数学の能力にコンプレックスを感じていたわけだ。これが入社してからの勤務に影響した可能性もある。
また小学生相手の進学塾の授業に関して酒井は「授業のレベルは、ほとんどの先生はおんなじで、別段大したことはない。よっぽどじゃないと差なんか出ない」と常々話していて、この点も「よっぽど」の先生になろうと自分を追い詰めた可能性はある。
また俺に言ったことはないが、自分の妹や母親に「40以上はリストラ対象」としばしば発言して、危機感を持っていたようだ。本人は頑張ってリストラされないように気を付けていたといえないこともない。