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古本屋日誌
中学受験の進学塾の日能研関西で2000年に起きた過労死事件。
当時算数課の課長だった酒井は50日以上休んでいなかった。当時を知る人たちに聞いてみた。
まず酒井が日能研関西に入社した1996年のことだ。ずいぶん前なんだが、当時のこの会社の雰囲気を示す話だと思う。
俺が、当時管理職だった東に「ほら、あの〇〇さんな、最近閑職に追いやられて、給料も減らされたゆうてたけど」と聞いたら「それは人による。〇〇さんは歳もいってるし、家もこうて、子どももいるから、いじめても退社せんやろと足元見られてるな」と言うのだ。
つまりあまり仕事ができないと判断した人には容赦なく干す事例があるということだ。
またこれは俺自身のことだが、1996年は新年度から3年生の授業を担当することがあった。
何回か授業してから、やはり東から「あの3年の授業、よくわからないという話で、外れてもらうことになったわ。だいたいマルス(わしのこと)に3年待たすというのがどうかしている」と言われて外されたことがあった。
これも特にここを改めるようにとか、指導が行われたわけではなくて、突然決まったことが伝えられて収入の減少になってしまったわけだ。
また1997年の3月から4月にかけての春期講習でも、上本町校の担当時間数が何の前触れもなく半減となったことがあった。
これは俺に任せて上本町校の授業を組んでいたが、大したことないので、新たに別の講師を雇ったからなんだが、この新しい先生も覚えはよろしくなく、また夏期講習からの俺の時間数は元に戻った。
これも力がないと判断した人には特に指導を入れることなく、干していくということで、当時の日能研関西はそういう会社だった可能性がある。
この社風が、酒井の心理に影響を及ぼしていたのではないかと思うのだ。
彼は静岡の掛川西高校の出身だが、入学した京都大学農学部の入学試験の問題が難しくて半分しか解けなかったと、学生時代に俺によく言っていた。
確か1979年の京大の理系は数学は6問出題されたのだが、半分も解けたら十分だし、入試なんだから合格すればいいだけのことで、点数なんかなんの意味もないと俺は思う。
しかし、彼は自分の数学の能力にコンプレックスを感じていたわけだ。これが入社してからの勤務に影響した可能性もある。
また小学生相手の進学塾の授業に関して酒井は「授業のレベルは、ほとんどの先生はおんなじで、別段大したことはない。よっぽどじゃないと差なんか出ない」と常々話していて、この点も「よっぽど」の先生になろうと自分を追い詰めた可能性はある。
また俺に言ったことはないが、自分の妹や母親に「40以上はリストラ対象」としばしば発言して、危機感を持っていたようだ。本人は頑張ってリストラされないように気を付けていたといえないこともない。