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古本屋日誌
中学受験の進学塾の日能研関西で2000年に起こった過労死事件。
当時算数課の課長(リーダーとゆう呼称だった)だった酒井が亡くなったのだが、その時点で彼は日能研入社3年8ヶ月目だった。
その前は京都進学教室の社員であり、近江八幡校、長浜校の教室長を務めていた。
しかし長浜校時代は部下の社員との折り合いが悪く、かなりのストレスになっていた。
生徒を指導することと部下を掌握することは、もちろん全く別の能力だから、どちらにも優れているなどという人物はそうそういるものではなかろう。
酒井はその失敗を繰り返すまいと、人材管理のマニュアル本の類を買い込んでよく勉強していた。
俺が上本町校で雑誌『SPA』を持ち込んで、授業の間、控え室の机の上に置いておいたら、酒井から「これはセクハラになるものだ、気をつけないと」と叱られたこともあった。そのあたりも含めて彼はいろいろ気遣いをしていたわけだ。
電話の応対に関しても、酒井は「はい、日能研上本町校、酒井がお電話承ります」と必ずお客さん(生徒の保護者)に話しかけていた。
その頃は電話の応対もマニュアル化は多分されておらず、たいがい「はい、日能研です」とか「もしもし、上本町校です」みたいな感じだったから、酒井の応対は実にスマートな感じがした。
それだけ気を遣っていたわけだ。
当時の教室長の藤本も「酒井さんは電話でも必ず『日能研上本町校の酒井がお電話承ります』と言ってくれていて、本当に感謝してるんです」と話していたな。
上本町校の個人用の収納ボックスには缶ビールなんかも入っていて、部下をねぎらいたい時なんかには、取り出して渡していた。
「えーそんなもんまで入ってんのやなあ、びっくりしたわ」と言うと「上に立つ者、いろいろ用意しておくものだよ」と自慢もしていた。
京都進学教室時代は部下に背かれて大変な目に遭ったので、日能研ではその轍は踏むまいと努力を重ねていたと思う。
でも彼は部下をまとめて一致団結して盛り上げていくタイプには見えない。
その点では課長という職責は、確かにもう一人の課長の酒井浩がいるとはいえ、かなりストレスがかかっていたのではないか。