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古本屋日誌
沖縄戦終結の6月にあわせて、NHKが「戦い、そして死んで行く」と題した特番を放送した。
これは米軍の報道担当が30時間にわたって、作戦の現場の実況を録音したものをもとに作られていた。
読谷村への上陸時にはなんの抵抗も受けなかったこと、伊江島を攻めるために本島北部の半島を攻撃したが、ジャングルの中で帝国陸軍の待ち伏せ攻撃を受けて出血を強いられたこと、
那覇を攻撃するために、あの有名なシュガーローフの丘を攻めたが、迫撃砲やマシンガンを備えた強力な陸軍部隊に阻まれ、1週間で2600名を超える死傷者を出したこと、米兵は、次第に住民までも敵兵なのではないかと考えて殺害するようになったことなどが克明に伝えられている。
これはこれで興味深いが、帝国陸海軍の方には同様の取材をしないのが不思議だ。
沖縄戦では集団自決やひめゆり、そういうネタ一辺倒というのが解せない。
那覇攻防戦では陸軍の装備は米側を上回っていて、練度も高く、敵に大損害を与えている。
それなのに、(思い上がったアメ公を、この俺が皆殺しにしてやったけどな)という話は禁止されている。
これは歴史を捻じ曲げる行為だと思うな。
事実、集英社新書の『沖縄スパイ戦史』には多数の米兵を狙撃して殺害して嬉しかったとの体験談も載っている。
戦争なんだから当然のことだ。
この番組作成の偏向は、結局のところ歴史を全て今の価値観から判断しようとする子供じみた発想とアメリカ様への配慮からきているのだろう。
今日の沖縄戦終結の全戦没者追悼式でも、二度とこんな戦争はしないだとか、平和を希求するとか言ってるけど、死んだ兵隊や大衆はそもそもアメ公を皆殺しにして戦争に勝つことを願っていたわけだ。
その思いを踏み躙って良いものだろうか❓
平和などを声高に唱えることはそもそも慰霊にはならないと思う。
アメリカに12500を超える死者を強制して、英雄的に戦ったことを、讃える価値観も持たないといけない、と思っている。
確かに、沖縄戦は現在のわれわれの価値観からすれば訳のわからない行為だし、絶対に容認できないことだ。
しかし1945年当時、紛争はすべて戦争で解決するのが常道であったわけだから、今の価値観からあれこれゆうことは出来ない。
わが国は欧米列強のマネをしようとたくらんで、朝鮮を殖民地にし、さらにシナ全土を支配しようと試みた。
別に不思議なことでもないし、当時としては当たり前の行動だ。
その結果アメリカとの戦争に至ったのだが、これもよくあることで別に大騒ぎするほどのことではない。
そして戦争には勝ち負けが必ずあるということだ。負けることもあるわけだ。
大日本帝国は当時の国際的な価値観に基づいて国策を展開して、戦争に訴えた。
大衆はそこに身を投じて戦ったわけで、英雄的でもあり、仕方がないことでもあるわけで、本来尊敬されるべきなのだ。
そこを曖昧にして無闇に平和が大事だという連中は不快だ。
今日は、久しぶりに御堂筋線で新大阪に出向いて地下一階のイベントスペースで開催中の小規模な古本市を覗いてみた。
これで3日がかりで、開催中の3つの古本市全てを見たことになる。
さてここは、当然外国人客もたくさんいるので、木版画(役者絵、風景画)や鳥瞰図、図録、昔の広告デザイン、マンガ論、写真集、洋書などがたくさん出ていた。
また雑貨小物や絵本なんかも割合多かった。
それにしても、谷町の古本市ではいつも不思議に思うのだが、左翼文献が大量に並んでいる。
全共闘のやつ(日大や東大、全共闘白書)に加えて高橋和巳と赤軍の共著、新泉社から80年代に出た新左翼運動の歴史、理論史のたぐいなんかだ。
さらに中核派の元メンバーの回顧録や戦旗、蜂起派の内部文献なんかまで並んでいた。毎回出品されているわけだから買う人がいるわけだろう。
かつて自分が関わった運動へのノスタルジーみたいなものから手を伸ばすのかもしれない。
それ以外に、左翼運動の研究者もいるのかもしれないが、それならもっと系統的に集めようとしたり、ビラやチラシの類に興味を示すだろうから、やはり谷町に来るお客さんはノスタルジーに染まっている人なのだろう。
今日は昼前に谷町の古書会館に出向いた。
昨日から3日間、小規模な古本市が開催中だ。
今回は文学書を扱う矢野書房と古文書なんかを出している古本横丁が参加しておらず、そのスペースは他の古本屋が主に文庫本をたくさん並べて埋めていた。
2日目ということで、ゆっくり本を読む眺め、読んで確かめることもできるから、古本市は2日目、3日目なんかの方が魅力的に思える。
この古本市のお客さんはあまり話をしてる感じはないな。
好みの本を手にしてためつすがめつ、吟味してやまない。
古本屋に本のことをたんねることはない。(ふ、俺の方が、おまはんなんかよか、よう知っとんねん)というスタンスだろう。
谷口ジローの『孤独のグルメ』と似た雰囲気だ。
あれは松重豊の主演でドラマ化されて、一部に受けている。本を読むという行為も、喧騒の巷で誰にも邪魔されず、一人の時間を楽しめるわけだからな。すぐ北側に大洋珈琲があって、かなりうまいコーヒーを持ち帰ることもできる。
さらに道をわたるとコンビニがあって、イーティングスペースがあるので、れいこーをしばきもってこうたばかりの本を楽しむことも出来る。
古本市では、杉本梁江堂がたくさんの『上方趣味』を出しているのに驚いた。
この雑誌は大正時代から昭和17年にかけて、大阪や兵庫(今津)で発行された月刊の雑誌で、著名な作家が芸能や名所旧跡、風俗、伝説、地名なんかについて、あれこれ論じたエッセイと木版画が収めてあるものだ。あまり見たことのないほどの量なのでびっくりした。
他にもアジア号が『日本生活図引』を何冊か出していた。この大型本は昔の市井の風習や産業、生活習慣、祭礼の写真を集めたもので、詳細なキャプションが魅力的だ。
今日から京都、大阪で古本市が3つも始まる。
京都は四条通にあるフジイダイマルの地下、大阪は谷町の古書会館と新大阪駅だ。
早速フジイダイマルに朝から行ってみた。雨は四条駅についた10時過ぎには上がって、暑くなってきていた。
ここは京都、大阪、神戸、彦根、奈良、伊勢、富山などから18の古本屋が参加している。
フライヤーを見たところ、店舗を構えている古本屋が多い。
通販だけでなく、店を持っている古本屋は地元に根付いてその地で商売しているわけだから、通販のような値段で売ることは難しい。
だから今回もそれなりに安い値段で売っているのではないかと考えたのだ。
ここの地下は、古本市の行われる催し物会場のほか、大きなスーパーも入っていて、大通りに面した一階から入る手もあるが、寺町通り側にある階段を降りて入ることもできる。
いつもの古本市の時なら、10時半のオープン前に10人くらいは並んでいるのに、今回は誰もいない。
やはり大阪の方に行ってる人がたくさんいるのだろう。
さて並べてある本だが、いつも感心するのは、文庫本も含めてカバーの上に透明できれいなシートをかけてあったり、そうでない本もピカピカにカバーを磨いて、新品とみまごうばかりの美品揃いだということだ。
ジャンルでは、文学書、図録、レコードなんかが多い。こういう本はコレクターもいるし、コンディションを確認してから買いたいと思っている人も多いから、通販に馴染まないこともある。
大藪春彦の、見たこともないほどたくさんの文庫本、大江健三郎のこれまで見たこともない稀覯本、川崎長太郎のたくさんのハードカバー、初版本、畑中純の版画集、こういったものに目が惹かれた。
田中大介が光文社新書から『電車で怒られた!』を出した。
乗車マナーは実は年々向上しているにもかかわらず、われわれは常々イライラがつのっているという話だ。
そうなのか、マナーが向上しているとは思わなかったな。
確かに以前の鉄道は喫煙が大っぴらに認められていた、今はそれは禁止されている、その点では確かによくなっているけど、乗客のマナーはどうなのか、不思議な話だ。
ただ社会学の研究は斬新な視点や切り口が大切だから、田中の視点はそれなりにポイントをついているのだろう。
この本の中で日本の大都市圏は車よりも、鉄道を使って通勤する割合が高いという話がある。
なんでも東京都市圏は車32%、公共交通31%であるのに対して、ニューヨークは車が75%、公共交通は9%に過ぎない。またパリでも44対17、ロンドンは49対16で、いずれも車社会だ。
そうなのか。これは知らなかったな。俺の考えでは田舎は車社会だが、大都市は鉄道網が整備されているので、車に頼ることは少ないと考えていたのだがな。
アメリカはそもそも鉄道が少ないし、運行が不正確だ。またニューヨークの地下鉄は治安がよろしくないとも聞いている。
そのあたりが原因なのかもしれないけど、いくらニューヨークが大きな街だとしても、そんなにクルマが来てしまったら渋滞も日常化するだろうしイライラがつのることにならないのだろうか。
普通に考えて、地下鉄や鉄道を利用した方が速く目的地に着くだろう。
またクルマの維持費やガソリン代、保険、税金などを考えたら、年間どう安く見積もっても100万を超えることは間違いない。
そこまでの金を払う価値があるとはとても思えないけどな。
だいたい電車の方がはるかに安いわけで、大都市圏でクルマにたよる連中とは合理的な考えができない人たちだと思う。