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古本屋日誌
中公文庫から武田百合子の『絵葉書のように』が出た。
2017年の浩瀚な単行本『あの頃』からの抜粋で編んであるエッセイ集だ。
武田は生前、雑誌掲載分に丁寧に目を通し、手を加えてからでないと本にしなかったそうだ。
1993年に亡くなって、今年でもう、30年になるものの、新たな読者を生み出し続ける人気ぶりだ。
出版社としても「武田百合子の単行本未収録作品を読みたい」というお客さんからの要望に応えたくなったものだろう。
それにしても、武田百合子の文章はうまい、うますぎる。
天賦の才であり、他の追随を許さないとしか言いようがない。
本屋にたくさん並んでいる作家連中の文章など、下手すぎてお話にもならない。
武田のそれは、企んでやっているように見えない、自然に流れ出しているかのような、努力とは一番遠い作品に思える。
長谷寺に牡丹を見に詣でた話。
「境内一円に満開であるはずの牡丹は、昨日の雨で、くちゃくちゃになっていた。
とんでいた鳥や蝶の群れが、いきなり、ばたばたと死にかけているような、どきりとする光景だった。
不機嫌な参詣客は、すれちがうとき、お互いに意地わるい眼つきをして境内を巡り、それでも牡丹の前で写真を撮ったり、撮られたりしていた。」
齋藤なずなが小学館から「ぼっち死の館」を出した。
齋藤は稀代のストーリーテラーで、日常生活を細かく描きながら巧みに話をまとめて行く手法は鮮やかだ。
ただ、今回は一人暮らしの老人が多く住むアパートが舞台で、その日常生活は詩的でもないし、悲惨な出来事もいくらでも起こる。
同じことを毎日言ってくる不気味な老人の話や、1週間ほど、姿を見せないから、もしやと思ってアパートの部屋を訪ねてノックしてみたが、返事がない。
異臭があるかと鼻を働かしてみても別段異常はなかった。
しかしひと月後、やはり老人が孤独死していたことが明らかになって、「腐敗が進まず、ミイラ化の方向に」進んでいたという話になる。
こういった救いもなければ、オチもない、身も蓋もないような現実をこれでもかと描いて行く。
しかし齋藤には天性の才能があって、ラトシーンは心静かに、全てを受け入れたくなる展開になって行くから驚かされる。
それは彼女の卓越した画力によるところもあるのだが、それにしても大したものだ。
普通の会社では、どの人が休んでも滞りなく業務は回っていく。
それが正しい姿であることは言うまでもない。
ハンナアーレントが「人間の条件」で家庭での親の子どもへの接し方が産業革命の前後で変化したという。
家内制手工業では子どもも大切な労働者であるから、親は厳しく叱り、仕事を身につけさせようとした。
なにせ子どもが仕事してくれないと、たちまち立ち行かなくなる自転車操業だったから。
しかし産業革命を経て工場で子どもが働くようになると、家庭は仕事の疲れを癒す安らぎのスペースになり、親も優しくなった。
工場での労働者の位置も変化した。個々人は剰余価値を生み出すコマであって、なくてはならない存在などではない。
アーレントの話はその通りだよな。
ある特定の個人に業務が偏り、その人が抜けてしまうと回らなくなるような会社は間違いなく破綻するだろう。
要するに社員は業務のベルトコンベアーを前にして、与えられた職責をこなしているに過ぎない。
職制(部長とか課長とか係長など)はベルトコンベアーが回っているかどうか確認して、無理がある場合は別の人を入れる手配をするに過ぎない。
その上で個々人が、「俺がいなかったらこの部署はダメになる」とか「俺がエースだ」みたいなやり甲斐を感じるのは、客観的には間違い(つまり事実に反しているという意味だ)ではある。
しかし、それはその個人の生きがいや心の持ちようの問題としては、なんら問題はない。
むしろ人間疎外からの回復ということだから、ごく自然な流れなのだ。
それにしても物事にはほどらいというものがある。
漢字は9割以上が形声文字なので、音符には取り立てて意味はないのが普通だ。
つまり銅なんかなら、音符の同は発音を借りているだけで、おんなじだとか何かと等しいてな意味はない。
餌も耳は音符だから、4000年前のシナでは動物にエサとして耳を与えたなどということはない。
だから、エサという漢字は「食自」と書いてもよかったわけだしなんなら「食地」の可能性もあった。
白川静は漢字の語源に独創的な見解を出して、平凡社から浩瀚な辞典を何冊も出している。
よく知られているように「道」は三叉路に生首を供えて道中の安全を祈願した様子を表すなどという解釈だ。
つまり漢字のどの構成部分にも意味があるという考えであり、先に述べた形声文字の考え方からすれば、大いに問題がある。
また漢字の起源などというネタは、4000年も前にただ一回発生しただけの、繰り返しが効かない現象であり検証が不可能だ。
白川の話は読み物として確かに面白いけど、真実かどうかなんかわからない。
すまじきものは宮仕の通り、人に使われる身となると、上の覚えが、気になるものだ。
自分のちょっとした言葉や行動がどう上司に取られるのか、気にならないわけではない。
でも、これがだんだんひどくなって疑心、暗鬼を生むみたいになってしまう人が多いよね。
日能研関西の話だが、ここは小学生相手の進学塾なんだが、仕事であるから、当たり前だが有給休暇も認められる。
しかし、厄介なのが塾の場合、仕事が授業であるから、ある先生が有休で休むとなると、代わりに誰かが授業しなければならなくなることだ。
でもそんなことを気にしていたら、休みなど取れやしないし、あいみ互いということもある。
ある先生が有休を取って休んだ。
休み明けに「私の授業ですけど、誰がやりました❓」と聞いたらずっと上の、部長職を務めるひとがやったことがわかった。
途端に顔色も青ざめ、すぐその部長のところに駆けつけて
「先日は誠にあいすみません、どうしても抜けられない所用で休んでしまいました。代わりに授業してくださったそうで、お手間取らせました。」
「いや、いや、かまへん、かまへんよ。なんかの時はまたゆうてください」てなやりとりがあった。
至極当たり前の対応だろう。
むしろ謝られた方が当惑しているかもしれないよな。