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古本屋日誌
今日は京都古書会館(丸太町高倉下ル)に出向いた。
京阪の神宮寺丸太町駅から丸太町通を西に、高倉通までてくてく歩いた。
いつも思うんだが、喫茶店が少ない代わりにパン屋が多いな。
河原町丸太町交差点にはびっくりドンキーと牛丼の「なか卯」があるけど、そこから御所の方へ歩き、やがて裁判所が出て来るけど、喫茶店らしきものはない。
高倉通を南に折れても相変わらずなんだが、パン屋は河原町の交差点とその北側にあるのをはじめとして、高倉通の衆院にいくつもある。
どのパン屋も早くから店を開けていて、客もたくさん入っている。
京都の人のスタイルは、パン屋でうまいのをこうてきて、家でゆっくり味わうのだろう。
ただ寺町丸太町下ルにある有名な「進々堂」は大きなパン屋で、店の右手には25席もイートインスペース、左手にはレストランが設けてある。こういうパン屋はあんまりないな。
古書会館の帰りに、河原町丸太町上ルにある本屋『誠光社』に行ってみた。
ここは店主のセレクトした面白い新刊書を販売している個性的な本屋だと聞いていた。
文学書(内田百閒、西村賢太、河出文庫の『死について』上、下、『ゴーイングダーク』など)からマンガ(つげ忠男、赤瀬川原平、安西水丸とか)、美術書(『ニュー新宿』など)、建築の本、理系の本、街歩きの本(『ほんやら洞』があった)、本屋の本(『本屋の周辺』、あまり見かけない雑誌などが白木の本棚に整然と並んでいる。
雑貨や文房具、CDなんかをおかず、本だけで店をやるのは、大変だと思うのだが、この店は本と雑誌しかない。
大したものだ。
京都は観光業で生計を立てている街だ。
市内各所に点在する寺院や名所旧跡を自転車で回れるよう、昔からターミナル駅にはレンタサイクルがあった。
1日レンタルして800円くらいだったのだが、返却する時に、また元の店まで持っていかないといけない面倒くささがあった。
昨今、衛星を利用して自転車の位置を瞬時に把握できるようになったことや、電動アシスト自転車が普及したことで、あたらしいレンタルシステムができている。
スマホで、各自転車に施されたバーコードを読み取り、時間単位で発生する料金の支払い情報を登録したら、自動的に開錠される。
レンタルできるスポットは京都市内各所にあって、返却はそのどこでもできる。
1日、12時間レンタルという廉価コースも用意されている。
業者もいくつもある。
三条京阪には昔からの店舗を構えたレンタサイクル屋もあるが、高山彦九郎像の南側には自転車の販売の全角チェーンである「ASAHI」がやっている電動アシスト自転車が並んでいる。
30分で130円、以後10分ごとに100円だ。12時間利用なら1800円。
さらにそのすぐ南側には電動でない普通の自転車が並んでいる。「pippa」のシステムでこちらは30分ごとに110円、12時間の利用では1100円だ。
さらにもう一つ別の業者の自転車も並んでいて、なかなかの激戦区だ。
先日、平日なんだけれど、レンタルしようと三条京阪に出向いたら、普通の自転車は一台しか残っておらず、電動の方はたくさんレンタル可能だった。
これは少しでも安い方がいいという判断からだろう。
京都は観光客相手なので、そもそも物価は高い。
千本今出川近くにある「中村製餡所」はつぶあん、白餡、大納言小豆の餡とそれを包むウエハースをセットで売っているんだけど、1400円、1600円だ。
ものすごくうまいので、嬉しい限りなんだが、京都の地元の人はどう思っているのかな。
西村賢太が死んでもう一年だ。
命日の2月5日付けで文藝春秋から『蝙蝠か燕か』が出た。
西村は魅力的な作家だったが、一つよくわからないのは藤澤清造へのえらい思い入れようだ。
全集を出すとかいって、豪華な内容見本を作ったり、小説にもしばしば傾倒するさまが書いてあった。
西村の尽力で藤澤の作品が文庫本となって刊行もされた。
新潮文庫の『根津権現裏』は代表作なんだが、読んでみてもつまらない小説だ。
グダグダと同じ話が繰り返され、ギャグのような部分も笑えない。
つまりどこがそんなにいいのか、わからないということなのだ。
今回の作品集にその点に触れた内容がある。
「妙にネチネチした、くど過ぎる程にくどい文体でもって一つの事を延々と語り続けるその小説は、(中略)一種異様な雰囲気があった。無論、いい意味での異様さではない。成程、この私小説家が往時も今もマイナー的存在として扱われている理由も窺い知れた思いであった」
「この小説世界がもしかしたら現在の自分が置かれた状況、それに伴う心境に塩梅にフィットするかもしれぬとの期待が生じ、再読する気になったのだ」
なるほど西村賢太も『根津権現裏』を評価しているわけではないのだ。
ただ、四面楚歌の自分(田中英光の親族を酒の席で殴ってしまい、それ以降、田中の研究を続けられなくなって、ひどく落ち込んでいた)が、藤澤清造の境遇に近いものだと思え、惹きつけられたわけだ。
自分に引き寄せて作家を読み込むことは誰にもよくあることだよなあ。
BS松竹東急で、往時の新喜劇を再放送している。
藤山寛美が座長を務めていた頃のものなんだが、いつも不思議に思うことがある。
歌舞伎の幕間のことを「まくま」と表現していることだ。
もともと「雲間」なら雲と雲のあいだ、間隙、隙間という意味だ。
「雪間」なら雪がまだらになっている、消えている隙間だ。
「風間」なら風が吹き止んでいる時だ。
だから「まくま」も幕と幕の間という意味だと素直な受け取れる。
むしろ「まくあい」の方が不自然な感じもする。
小谷野敦が『文學界』の2月号に久しぶりに短編(「幻肢痛』)を書いている。
禁煙の大変さをあれこれ書いたあと、便に血が混じっているのに気づき、これはひょっとして大腸がんなのではないかと悩む話だ。
内視鏡で検査したら、2センチ程度のポリープが見つかって、小さいものなら検査と同時は切除もできるのだが、今回のは大きい、紹介状を書くから、別の病院で切ってもらってくれと言われるのだ。
医者に小谷野敦が
「『良性か悪性か、ということは…』と訊いた。
すると医者は向こう向きのまま、
『混じってる感じね』と言った。」
とある。
そうなんだよね。昔と違い医者はガンなのかどうかを包み隠さず告げるのが最近の流れだ。