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古本屋日誌
松尾匡が講談社現代新書から「左翼の逆襲」を出した。
松尾は立命館の先生なんだが、既存の左翼が安倍政権に有効な反撃を打つことができず、7年もの長期政権を許したことを問題視して、自ら左翼3.0と称して新しい変革のビジョンを提案している。
要するに緊縮財政ではなく、安倍政権の1年目にやったような金融緩和を推し進める話だ。
その成否はさておき松尾は国が赤字国債をジャブジャブ発行しても円が暴落し、ハイパーインフレなどが起こらないことをスーパーとその従業員を例えに出して説明しているのは面白かった。
スーパーが日本の国でその従業員が日本国民だということになっていて、スーパーは従業員に現銀ではなく自分のスーパーでだけ使える商品券を給料として与える。
松尾はスーパーは商品券をいくらでも作ることができる、その原資が社員が商品を買うときに払う商品券ではないことを強調する。つまりスーパーは何もないところから金を作り出せるというのだ。
この話でつまりわれわれが国に払っている税金が国家予算の原資ではないことを言いたいわけだ。国もスーパー同様何もないところから予算を作り出すことができる。
ではなぜ意味のない税金を取るのか❓
それは大衆のもとにいくらも金が溜まっていき、その金で様々なものを買おうとするわけだが、その需要に生産が対応できなくなるのを防ぐためなんだという。
マクロ経済学のイロハはさておき松尾は金融緩和を推し進める大きな政府を作る方向を模索している。
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昨日は京都のお客さんのところに出向いていろいろお話。
午後2時の四条大橋の人出はいつもの連休と全く変わらない感じで肩を触れ合うくらいの人波だった。
カップルでともに和服姿、草履や雪駄といういでたちの人もたくさんいたし、観光地なのであまり人も急いでおらず、四条大橋の人の流れがやけにゆっくりしている。
実はその先頭に杖をついた年寄り二人連れがいてその歩みゆえに渋滞が発生していたのだが、いらちのわたしを除いて先に出ようとする人はいない。
お客さんのお話
「枡形のな、ふたばとか、あのなんやったかうどんと鯖寿司を出す商店街の力餅みたいなうどん屋あるやろ、あそこなんかえらい行列でびっくりしたわ。ふたばはわからんでもないけど、あの鯖寿司のうどん屋なんか大してうまないのに観光客はバカだよなあ。」
「わしの周りでもないコロナになったいうやつは誰もおらへん。流感やったらな何人かおってな、あーインフルエンザはやっとんねんなあ、思うことは昔はあったからなマスクつけるとか、うがいしとこかて思たけどな、コロナはだーれもかかってへんからな、普通に生活したったらええやないかとみんな思てるわけや」
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「週刊ポスト」に呉智英の連載がずっと載っている。先月「赤毛のアンの邦題を使わなくなった理由」と題した一文を書いていたが、意味がよくわからない。
タイトルからしたら何か「赤毛」あたりに不都合な事情があってこのところは「赤毛のアン」と称することをやめたとの内容かと思われた。
ところが中身は70年代、学校である先生が生徒に欧米人風の名前を愛称としてつけていたことから始まり、その名前をつけた先生が生徒に「赤毛のアン」を読むように強制したという話になる。
さらに「赤毛のアン」の原題は「緑の破風館のアン」だったという話になり、この小説が書かれた頃は赤毛は犯罪に結びつくイメージがあったことが語られて終わりとなる。
うーん、タイトルは近年日本で「赤毛のアン」というタイトルを使わなくなった理由とあるのに、本文を読んだらこの小説が書かれた20世紀初頭には赤毛が犯罪に結びつくイメージがあったという話で、これでは今の日本の話では全然ない。
また導入の生徒に欧米人風の名前を付けた先生の話も書く意味がどこにあるのかさっぱりわからない。
呉智英先生は大好きな評論家で、以前大阪の食い倒れの話を書いておられたことがあって森田たまの随筆などを手掛かりに「大阪は食い倒れではなかったのではないか」との内容だった。
わたしがたまに読む大阪市史編纂所の雑誌に「天下の台所という表現は徳川時代にはなく、明治になって大阪市史を編纂する段になって幸田成友が作り出したフレーズだ」との論文があることを知っていたので、早速双葉社気付でその雑誌などをお送りしたら、ご丁寧に直筆のお礼状に加えてご自身が寄稿されていた太田出版の仏教雑誌までいただいた。
そこには「これまで通説と考えられていたことを考え直す作業もわたしの仕事なので、今後ともよろしく」とあってありがたかった。
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光文社から小林よしのりの「新型コロナ、専門家を問い質す」が出た。作家の泉美木蘭との対談本だ。
小林の主張は新型コロナはこと日本に限ってはインフルエンザ以下でしかなく、今のように警戒を続ける意味は全くないということだ。
確かに季節性インフルエンザで日本では毎年3000人以上、関連死では1万人が亡くなっているから、現時点の新型コロナの死者数の1800と比べたら、騒ぎすぎとの感は否めない。
その上コロナの死者数はとにかく陽性であれば、明らかに死因ががんとか脳溢血とかであっても、コロナが死因だとカウントされている。それにもかかわらずこの程度なわけだからな。
小林は例のコンピュータ富岳を使ったマスク実験について「マスクしてても、富岳のシミュレーションでは3割も漏れている、3割も漏れたらコロナウィルスは何万個も浮遊している」と言う。
それも確かではあるけど、われわれは根が臆病に出来上がっているので、「一応7割はガードできてるわけだから効果はあるように思える」となるわけよ。
この辺はもっと臆病な日本人に訴えかけるような工夫が必要だろう。
このところ東京、大阪など都市部で感染者数が増加しているそうで、政府は「ゴートゥー」キャンペーンの見直しを言い出している。
あらゆるジャンルの通販業者とか医薬品メーカーや感染対策グッズの会社なんかは空前の利益を上げていることは間違いない。しかし観光業者や飲食業は手痛い打撃を被っているし、何よりそこに従事する労働者はいわれなき解雇を言い渡されて呻吟している。
コロナに関しても例の「ショックドクトリン」が発動されているのではないかと勘ぐりたくなるよなあ。
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坪内祐三の「週刊文春」連載の最後の分が本の雑誌社から出た。「文庫本千秋楽」で相変わらず面白い。
坪内祐三があんなにあっさりあの世に行ってしまうとは思わなかったな。
あんなにかくしゃくとしていたんだから、死んだぐらいで大人しくなるとは思えない。はやく天国からでも新著を届けてもらいたいものだ。
この本の中で中島義道の「東大助手物語」を取り上げて中島が東大時代に研究室の上司の教授から激しいアカハラを受けた話が赤裸々に書いてあるという。確かにその糟谷という教授がドイツに留学している間ずっと自宅の芝刈りを中島に命じてやらせるなど言語道断だ。
それはさておき、東大法学部では優秀な学生が法曹界や企業に流出してしまうのを避けるために、教授が優秀だと認めた学生は大学院には進ませずいきなり助手に採用して2、3年後に助手論文を書いて助教授にするというのが慣例となっているという。
とすれば22で助手になるわけで中島義道が助手になったのは37だから不当な感じもする。
坪内祐三は「唾棄すべき世界だ」と嫌悪感をあらわにしている。
確かにこうして教授になった人間は博士号を取ってないわけで、どうかと思われるところなんだが東大法学部では逆で博士号を取っていると低く見られるというのだから異常だよなあ。
同じ慣行は京大法学部でも行われていて、法学部内の雑誌「法学論叢」には論文の著者紹介で学部卒と同時に助手採用されたことが誇らしげに記してある。
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