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古本屋日誌

2019-10-26 12:08:00

昭和51年創刊の「サロン大学」の第1号をようやく入手できた。

サロンつまりキャバレーやアルサロの情報誌でこれまで3号までは刊行が続いたことはわかっていたが、創刊号は初めて目にした。大阪市立図書館にしても府立図書館にしてもきちんと雑誌を集めていない。まあ司書の連中の能力の問題だろう。

磯田敏夫の短編連作や藤本義一のエッセイ、成瀬国春の戯れ絵が載っているのはやはり素晴らしい。

この号にはキャバレー経営者の座談が載っていて、「ニューメトロ」、これは例の巨大キャバレー「メトロポリタン」のすぐ横にできた少し小さめのアルバイトサロンだ。「大劇アルバイトサロン」、これは磯田敏夫が働いていたアルサロの草分け的な存在の店なんだが、そういう人の話だ。座談では既に昭和25年に大劇のサロンではアルサロ形式を取り入れていて、素人ぽっさに客がつくのだとか、若い子はションベン臭いがその分話題も若い客向けに合致しているとか、本番のホステスとの差異化を図る戦略が語られている。

東京の有名なキャバレー「ミカド」の話があって(「ミカド」は例の超ゴージャスなキャバレーでシンボルマークが16文菊のやつですね)「この前東京の「ミカド」に行ったら、それこそみんなホステスは美人ぞろいで、美人でない子を探すのが大変だった」という。つまりそんなやり方では大衆には親しみが持てないから商売としては問題があるというのだ。

折しもちょうどこの昭和51年に御堂筋に面して立っていた巨大キャバレー「美人座」が閉店したのだがその理由として「ホステスの年齢が高くて客のニーズに合わない」ことが挙げられていた。「美人座」は夜の観光の目玉としてバスコースにも入っていて、ホステルの指名時もアナウンスをせずに小さな紙片でやり取りする奥ゆかしさがあったのだが…。

まああれですね、大阪の人は伝統的に泥臭い方が何につけ好きですね。以前有名だった天王寺動物園のトラの檻の前の注意喚起「噛む‼︎」とか地下鉄の扉にあった「指づめ注意‼️」地下鉄の手洗いにある「よう、おこし」テレビや看板でひつこく流されている「来てみてや〜〜」「ええとこてんこ盛り」「絶対損はセーへんで」などの大阪弁のコピーなど枚挙にはいとまはない。東京ドームもビールの売り子の女は例外なく美人ばかりで、甲子園なんかと比べてびっくりする。


2019-10-25 00:07:00

坂口安吾の「安吾新日本地理」に大阪を扱った回がある。「道頓堀罷り通る」というやつで昭和26年にしばらく道頓堀の「京屋」という宿屋に滞在したルポだ。
「京屋」は戦災を被らずに残った古風な仕舞屋風の宿屋で安吾は気に入っていて、逆に御堂筋に面した三寺の三階建てのコンクリートの庫裡は毛嫌いして「昔の浅草とか吉原だとかの遊女屋みたいだ」といい、車でこの寺を通る時イライラしたとある。
また例の巨大キャバレー「メトロ」に出向いた話がある。「イヤハヤ、馬鹿馬鹿しく大きいね、そして大げさなアトラクションだが、飲ませるものときたらひどいね」とくる。ジンヒーズを頼んだらジンらしき香りが少ししかない、二杯目を頼んだらカルピスにほんの少しジンを垂らしたものを持ってきた。便所へ立ったら客用のは修理中で、ダンサーの脱衣所のとなりの楽屋の便所を使う様になっていると嘆く。
三寺の隣にバーらしきものがあって行ってみたらバーではなくてバンドがドカドカやっているキャバレーで、ここもかなり広いがメトロとは対照的に広い店内には植木鉢もなくて実に殺風景だ。こんな殺風景な店は東京にもない。
まあこんな感じでした。
あれですね、坂口安吾といえば「堕落論」が有名でこれは戦時中に書かれたもので、来るべき空襲を見越して、たとえ法隆寺やら金閣寺やらが焼けても構わないんだ、文化というものは形ではなく精神だから何もないところからでも立ち上がることが可能だなどと空襲で文化財が焼けてもいいんだという話をしてました。
バカですよね~~そんなもん人間は形が大事なんだから法隆寺やら金閣寺やらが焼けたらもう終わりですよ。だいたい戦時中に国策にそうようなことを言ってるわけだからどうかしてるよなあ。
そのくせ大阪を訪ねて町屋の「京屋」は評価してる、逆に鉄筋コンクリートの三寺は毛嫌いするんだから意味不明だ。
キャバレー「メトロ」の記録は貴重だがそこでジンヒーズを頼んでまずいとかいうのはバカ丸出しだ。そもそもキャバレーは酒を飲みに行く場所であるわけがない。それはちゃんとしたバーにいきゃ済む話で坂口安吾の目には円形の巨大なメトロがバーにでも見えたのだろうかね。



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2019-10-24 11:36:00

朝日文庫から永井義男の「本当はブラックな江戸時代」が出た。
江戸幻想批判は小谷野敦が以前から仕掛けていて説得力のある論考だが、永井のこの本も藤岡屋日記や様々な随筆集を元にリアルな徳川時代の姿を浮き彫りにしていて素晴らしい。
当時は氷も作れないし、冷蔵庫がないし、輸送手段も皆無に等しく魚はすぐに腐り刺身で食べることは稀でとにかく煮付けにしていたが、それでも腐りかけのものを食べることも多かった。
食生活も質素で朝はご飯と漬物、昼は豆腐の味噌汁とご飯、晩はひじきと揚げのたいたんとご飯と程度で特におかずは貧相でご飯をかきこんで空腹を満たしていたので脚気などにもなりやすかった。
衛生状態は極めて悪く裏長屋は井戸の近くにせんちばがあり、特に男の小用は垂れ流しだったために井戸の水も汚染されていた。
障害者に対しては露骨に嘲笑い、いたわりの気持ちはなく例の「東海道中膝栗毛」にも掛川宿で座頭二人をいたぶる話がある。
塩井川を1人の座頭がもう1人を肩車して渡ろうとするが、ちゃっかり弥次郎兵衛がおぶさって渡ってしまうのだ。最後に見破られて喜多八は川の真ん中で放り出されるのだが、読者も含めて座頭を嘲笑っていたことは間違いない。
こんな感じでした。
私の祖父の家は大阪の住吉にあって宮大工として一代で財をなして300坪はあろうかという豪邸があったが、もちろんせんちは汲み取りで男用の朝顔と女用男用の2つになっていた。ともにバキュームカーて回収されたのだが、永井のこの本では江戸では男用の朝顔のは垂れ流しで、女用男用のだけは、在所の百姓が汲み取りにやってきたとある。
そうなのか~~江戸では男用の方は垂れ流しなのか、なんでなんだろう。

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2019-10-23 12:12:00

最新の週刊ポストに評論家の呉智英が「天皇制は憲法の枠内で考えてはならない」との論考を掲載している。

共産党も護憲なので日本国憲法に記載のある範囲で天皇制を容認するようになった。また歴史学者の吉田裕は天皇がかつての大戦の反省を口にすることがあり、これは政治家が言えないことを代弁しているようなもので、憲法上は望ましくないという感じで、現今天皇制論議は憲法を引き合いに出して、適合しているとか、行き過ぎだとかに終始している。

しかし以前、坪内祐三が天皇霊のことを取り上げて、天皇にはもともと天災を防いだり、災いを招かぬようにする力が備わっているわけで、その天皇霊にも強い、弱いがあると論じて新たな視点を提示した。さらに坪内は大野晋らの著作を読んで「平成」という元号はエ段の音が多くて日本語の力としてよくない、それが平成の時代に多発した天災を招いているのではないかとの話をしている。これは重要な観点で、天皇制論議には憲法の制約云々に偏るのではなく、民俗学や神話学の観点からも論じる必要がある。

こういう内容です。

まああれですね、ちょっとよくわからない〜〜〜〜

フレイザーの焚殺される王様の話や折口信夫の天皇霊の論議をそのまま援用しているのかな〜〜〜〜

だからどうだというのだろうか?平成時代はとりわけ天災や災厄が降りかかってきた。これは天皇霊の弱さゆえである、また元号の発音がよろしくないせいである。つまり天皇が世襲であって、パワーもないただの人間が王を名乗っているがゆえにかかる事態を招くのだ、という感じで天皇制への批判につながるのかな〜〜〜〜

わかりませんな。


2019-10-22 13:04:00

先ごろ箕輪諒の「くせものの譜」が文庫化された。単行本は2016年だからかなり長くかかったなあ。

佐々成政や御宿勘兵衛といった大勢に順応できないでこだわりがあり、一癖も二癖もある戦国の勇者を取り上げた連作小説だ。
最後は大坂夏の陣を舞台にして御宿勘兵衛が真田に出し抜かれる話だ。
勘兵衛は秀頼に招かれて大坂城入りするのだが、武田家の血を引くものではあるが評価は低く300人の部隊を任されるだけにとどまり、真田は親父の威光か数千の大部隊を率いておまけに城の南端に独自に真田丸という砦を築くことも許された。

やがて戦端が開かれ勘兵衛は真田の援軍をするよう命じられて真田丸に出向くと幸村から「向こうにある小さな出丸の守備をお願いしたい、われらは越前兵の向こうにある小山を占領した後すぐに兵を引く予定で、それによって向こうから攻撃させたい」との戦略を知るが、勘兵衛は「そんな見え見えのやり口で、向こうから仕掛けてくるだろうか?」と懐疑的だった。


ところが勘兵衛が宰相丸にこもっていると突然最前線の前田の部隊が攻めかかってきて応戦に大わらわとなり、それにつられるかのように真田丸の前面に布陣していた越前の松平の部隊も一斉に攻めかかって乱戦となった。
つまり真田が放棄した小高い山から宰相丸の内部が見えて「わずかな手兵しかいない」と知った前田の部隊が功を焦って攻めかかり、それを見た越前兵も功を独り占めされてはならじと攻めかかってきた。
こんな具合でした。
まああれですね、「西部戦線異常なし」もそうだったし、日露戦争の旅順攻防戦もそうだったけど、機関銃がズラリと並んでいるのに、せいぜい塹壕を掘る程度で突撃を繰りかえすのが伝統的な戦闘のスタイルでした。「機関銃の社会史」では一分間に200も300も撃てる機関銃の威力は歴然としているのに、人々は長らく懐疑的だったとある。

日本では大将首を取った侍が功殊勲となる伝統があるから、遠くから銃撃して敵に打撃を与え死に至らしめても、誰の弾が当たったか定かでない。やはり接近して刀で首級を上げなければ意味がないとゆうことで西洋同様、鉄砲の威力には懐疑的だった。



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