Welcome
古本屋日誌
昨日後悔しつつも堺のお客さんのところに伺ったせいで今年の1月に電撃的に破産して全店舗が閉店してしまった天牛堺書店のその後の情報を得ることができました。
船場店は槇尾古書店となって再生して、サラ本は置かない古本屋で、200円、300円、500円、1000円、3000円の均一販売をしています。均一のキャプションも以前を踏襲していて懐かしいですね。
天下茶屋の店は田村書店になるとお客さんから聞きました。なるほど北摂中心にたくさんの店舗を展開している田村は大阪の南にも拠点が欲しいのでしょうし、千里中央など一部の店舗では古本の販売もしていますから好都合なんでしょう。ただこの田村書店で問題なのは古本に貼ってある巨大な値札です。3センチ✖️4センチくらいあって強力な接着剤でとめてあるのではがせません。店にはこの接着剤を剥がす溶剤が500円で売っているのですが、バカとしか思えない。
堺東店は丸善に変わっています。一応高島屋はそれなりのブランド力のある百貨店ですから、その格に合う本屋として丸善を選んだんでしょう。それを考えるとかつての天牛堺書店のネームバリューは泉州堺方面では絶大だったんでしょうね。サラ本も古本も両方扱うとはおもろいからここにしとけてな感じの高島屋の経営者の個人的な趣向だったんでしょうか、何れにしても丸善を選んで無難な方向に戻ったわけですな。
北野田店は東進衛星予備校になっていました。店が正方形なのでブースなどが取りやすいんでしょう。それにしても四日おきに古本を総入れ替えするなどというひちめんどくさいシステムが今となっては懐かしい。だいぶ前に天牛堺の社長と話す機会があって「こないな総入れ替えするやり方て他にはどこがやってますんや?」と尋ねたら「それはな、わしも気になって調べたんやが全国どこの古本屋もやってへんことなんや」と言うてました。
バカは風邪をひかないというのに、珍しく夏風邪を抱え込んで往生しています。今日は夕方から堺のお客さんのところに行く用事があり、熱が引かなかったら延期してもらおうと、布団に入り、頭もすっぽりかぶって汗をかいて毒素を出そうと試みました。
おかげで熱は下がりましたが、全身の倦怠感が残り、今堺にいるんですが後悔してます。
先日田辺聖子が亡くなり、上品な大阪をあれこれ描いた稀有な作家で残念だ。田辺は非常に器用な作家で、芥川賞の「感傷旅行」に収めてある姫路のバスのやり合いの短編には驚かされた。狭い田舎の、行き違いのできない道で路線バス同士が行き合い、どちらも引こうとしない。罵詈雑言を繰り出して相手を罵るのだが、バスの乗客も文句を言うどころか「絶対引いたらあかんぞ‼️ここが勝負や」てな感じで加勢するものだからいつまでたってもラチがあかない。
そうかと思えば中公文庫の「花狩」は大阪のお店の女の生涯を淡々と描いた佳品で素晴らしいし、「道頓堀の雨に別れて以来なり」は川柳作家岸本水府の重厚な伝記でこれまで取り上げられることの少なかった大阪の文壇に脚光を当てた作品だ。
今日はかなり暑かった。梅雨の中休み、つまり五月晴れで蒸している感じがしました。
うちはお客さんに本を送るのにはゆうメールを使っていて、かなり高額なものやいくらなんでも大きすぎるものはレターパックやゆうパックを使っています。
2012年の創業時はクロネコヤマトの集配所が家から30秒くらいの至近距離にあったのでメール便を使用していました。ところがそこで引き受けてもらった本がわざわざお客さんの住所である千葉県まで行って、そこから「2センチを超えている」ということで大阪の千林まで戻ってきましたので、さすがにバカバカしくてクロネコヤマトは止めることにしました。
今となってはこの会社もあまりにも荷物が集まりすぎてわけがわからなくなったんでしょう。
その後は郵便局に全てお願いして2013年ごろは特約ゆうメールで厚さは2センチまでとなっていましたが、本局にかなり分厚いものを持って行っても受け付けてもらえました。しかし次第に規定が厳格に適用されることになり、今ではきっちり運用されています。
「本局ではね、きっちり守らないといけないけど、出入りの親しい局はまた違うと思うよ」みたいななあなあでやらせてもらえている時期もあり、これはこれでありがたいことなんですが、やはり少ない局員でたくさんの荷物を捌かなければならないわけですから、規定をしっかり守っていくのはやむを得ないことだと理解しています。
道頓堀の立体看板は徳川時代の芝居小屋の人形看板からきているのではないかという話が先日の「ブラタモリ」であった。
くいだおれ太郎や動くカニ、たこ焼き、エビなど例のややこしい看板類は最近の発明ではなく、近世にまでさかのぼる由緒正しき歴史の継承者であるという話だ。
そこで「大阪春秋」のミナミ特集号を見ていたら大阪歴史博物館の船越幹央が、もどと徳川時代には商品を立体化して示す伝統があって、これは現代よりも顕著なくらいだとし、さらに守貞の「近世風俗志」の岩波文庫本第5巻には道頓堀の芝居小屋では上演中の芝居のサビを人形にして展示してあるというのを引用して「現在のけばけばしい人形看板は由緒正しきものだ」と主張している。
なるほどそうなのか。しかし今はもうないけど中座は長らく歌舞伎をやっていたし、文楽座もこれまたないけど、人形看板が出ていた覚えはないなあ。本家本元の芝居小屋はやめてしまったが、なぜか周りの飲食店がそれを継承するというのも変わった話だな。
道頓堀には戦前「赤玉」をはじめとする大きなカフェーが何軒も軒を連ねていたわけだが、おそらく店頭に生きた人形看板を出して客引きをしていたと思う。カフェーも一応ショーや出し物を用意していたから、その点では芝居小屋に似たところもあったわけだから、そのショーのさわりを演じる名目でホステスが店先に立つのはありだったろう。さらにカフェーの名物の天ぷらとか舟盛りとかを店先に飾ることもあったのではないか。
本渡章が創元社から出した「カラー版大阪古地図むかし案内」は地図が見やすく、以前のように隔靴掻痒の感はない。
大阪の町割りが道路ではなく、民家の裏を流れる背割り下水を境界としていて、道を隔てて顔を合わせる人同士は同じ町内になっている。従来道頓堀川や阿波座堀川、西横堀川などの掘割は水運を目的にして作られたとされてきたが、そうではなく運河を掘る際に出る土を周囲に盛り上げて湿地を宅地化するためだった。などの話が載っていて「ブラタモリ」のネタ本ではないかとも思えた。
地図から大阪の原風景を探る試みとしては西横堀川に比べて東横堀川に架かる橋の数は圧倒的に少ない。これは東横堀川が大阪城の外堀として考えられているのに対して西横堀川はあくまでも市街地を流れる運河であるからだという。また高津さんは大した面積でもないのに地図上は大きく描かれている。これは徳川時代に仁徳天皇の高津宮がここにあったと考えられているからだという。
ただまあ別に珍しくもない地誌的なウンチクが多くて、地図から読み取る作業や想像を膨らませることが少ないのは相変わらずの難点だ。安井天神さんの説明には松の木が地図に描いてあって、真田幸村がそこで戦死した伝承を本渡は解説で書いている。しかし地図上に「真田」とも「戦死の地」とも書いてないわけだから、地図から読み取れないわけで必要のない解説だ。