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古本屋日誌
『月刊タイガース』の今月号(9月号)には打者、投手を評価する昨今の指標の一つの解説がある。
打者のはOERAといわれるもので、その打者が毎回打席に立ち、安打や四球で出塁した時は他の選手を代走としてスリーアウトになるまでは同じバッターが打つ。それを9回まで続けた時の得点を評価するもの。
投手の場合はDERAといわれる数値で、あるピッチャーが9回まで投げ続けた時の失点の数値だ。
これを各チームで、2023年の成績を使い計算した一覧が掲載してあって、タイガースのチームとしてのOERAは4.097であり、ジャイアンツのは4.417となっている。これを見るとやはりジャイアンツの得点力は高かったわけだ。
この数値や解説文を書いているのは名城大の木下栄蔵と名古屋大の田地宏一の2人となっている。
その解説は
「とくにOERA値が低い巨人より(タイガースが)多くの得点を挙げているのは四死球の獲得によるものである。」となっているのだが、これがわからないな。
ジャイアンツのOERA値は明らかにタイガースより高くなっているのに、解説では反対の内容が記されている。
それに四死球もOERA値には組み込まれているわけだから、示されている数値は正味の得点力であるわけで、上記の解説はそもそも意味をなしていない。
『月刊タイガース』編集部宛に以上の疑問点を記したメールを送ってみたのだが、今のところなんとも返事は帰ってきてない。
『月刊タイガース』の最新号(9月号)は2000投球回を記録した西と1000試合出場の梅野が表紙を飾り、ロングランの対談が載っている。
タイガースは連覇したことがないような書かれ方を新聞なんかではされているが、もちろんそんなことはなく、2年連続優勝は達成している。
『月刊タイガース』では「2リーグ制以降連覇がない」という言い方をしていて、これは正確だ。
さて、西は投球間隔が短く、次から次へと投げ込んでくる印象がある。調子のいい時など、高校野球かと思うほどの間合いで投げてくるので、梅野とのサインの交換はどうなってるのか不思議だった。
それに関して本人は既にグラブの中で次のボールのにぎりをしていて、その状態で梅野のサインをチェックしているという。
サインが違えば、拒絶するか、そのにぎりに変更しなければならないのだが、梅野の場合はそういうことが少なくスムーズに投球動作に入っていけるのだという。
となれば、2人は正に阿吽の呼吸だということだよな。
また『週刊ベースボール」に連載中の岡田のコラム「そらそうよ」では、「みんな崖っぷちだとか、瀬戸際だとか言ってるけど、俺は確かに苦しくはあるが、まだまだこれからだ、と思っている」。
さらに「これからが指揮官の腕の見せどころで、果敢に戦って、2008年のリベンジを果たして連覇する」とある。
俺は去年のリーグ優勝、CS優勝、そして日本一にタイガースが輝いたことで、すっかり満足している。
偉大な岡田を批判したり、批評することなど思いもよらない。
その監督が、自ら2008年に敢えて触れて「リベンジする」と言うわけだから、これは重いことばだ、と思っている。
1980年代の熊野寮はそれまでのいろんな左翼セクトの集合体であったところから、黒ヘルノンセクト、農学部のノンセクト、中核派の3グループになった感があった。
1981年の12月には熊野寮を廃止する動きが学生部にあったのに抗議して、本部で大規模な集会がもたれ、デモで教養部に向かう途中、京都府警の機動隊とぶつかる騒ぎとなり、その件で後日熊野寮に、京都府警川端警察署のガサ入れが早朝あった。
それ以外にも本部の時計台の2階にヘルメット姿で入って、抗議活動をしてドアを損壊したとか、1984年の9月の三里塚の用水工事での阻止行動で寮生に逮捕者が出てその容疑だとか、学生部に出向いて抗議活動をしただとか、ことあるごとに熊野寮は早朝から川端警察署の機動隊がやってきていた。
寮生は警察の捜索に抗議はするのだが、押し返すことは出来ないわけで、いってみれば、常に敗北している。
こういったことを振り返ると、保元の乱の焼き直しをなんべんも繰り返しているようにも思える。
あの時は崇徳上皇側は1000騎、攻める後白河天皇側は600だったそうだが、いずれにせよ白河北殿を守る側は、一敗地に塗れることになった。
崇徳院の怒りは、その後、後白河側についたものに降りかかったといわれるのだが、その当の白河北殿🟰熊野寮で、何百回も敗北のデモンストレーションが行われるのは不思議なことだな。
これでは崇徳院の怒りは治るどころか、傷口に塩を刷り込まれたようなもので、おちおち安らかに眠ることもできまい。
むしろこれは襲撃した方、平清盛の怒りの再現なのかもしれない。後に一族が全滅した怒りが未だに収まらず、その腹いせなのかもしれない。
梶川敏夫の『ビジュアル再現 平安京』には現在、熊野寮となっている場所に白川北殿があったことが書いてある。
このことは知っていた(寮内に石碑があるから)のだが、保元の乱の現場であったことは知らなかった。
この本によれば、保元元年(1156年)7月2日に鳥羽法皇が死に、世情不安となり、10日には、崇徳上皇が鳥羽離宮の田中殿を出て、白川北殿に入り、藤原頼長、源為義、源為朝、平忠常ら軍勢1000騎を集めて上皇方の本拠となった。
ところが7月11日未明、後白河天皇方の平清盛、源義朝らの軍勢がこの北殿に夜襲をかけたことにより、建物は全焼、その結果崇徳上皇は讃岐に配流された。
なるほど、そういう由緒のある場所なのね。
熊野寮が建ったのは1970年だから、その当時京都市には埋蔵文化財を事前に調査するシステムはなかったようで、特に遺構が出たという話はないようだ。
ただ寮の敷地は北側に丸太町通があるのだが、ここからB棟と呼ばれている寮の正面の建物まで、かなり急な上り坂になっている。建築時に高まっている地表面を削平しなかったからではないだろうか。
東側にはテニスコートになっている広い空き地も残っているし、今掘れば何らかの遺構は出ると思う。
吉川弘文館から梶川敏夫の『ビジュアル再現 平安京』が出た。
これまでの発掘調査で判明した平安京の大極殿や羅生門、貴族の邸宅、社寺などを現在の地図に落とし込んで、正確な位置を示しているのに加えて、発掘調査が行われた際の写真も加えた本だ。
大河ドラマ『光る君へ』もあって、当時の平安京の姿への関心も高まっている。
以前光村推古書院から『京都時代 MAP 平安京編』という本が出ていて、これは今の京都市内の地図の上に白くて透けている紙に平安時代の貴族の邸宅やら、主要社寺を印刷した本なのだが、今は品切れになり、古書価は高騰している。
その江湖の乾きを癒すのが本書だろう。
著者は考古学者で、長年京都で発掘作業に携わってきた。
俺は思うんだが、考古学教室は文学の中でも極端に体育会系だということよ。
発掘作業するそのものが、炎天下でも行われる肉体労働だし、地層のちょっとした変化に気づくには長年の経験や勘が不可欠だ。
出土品とそうでないものを瞬時に見分けるのも大変だ。
先輩の指示ややり方に異を唱えるなんか、思いもよらない。(それがいいことばかりとは思えないけど)
この本にはそういう考古学者の思いがほのみえるところがある。
1972年に、著者が初めて八方に臨んだのは羅生門だったが、そこであの、角田文衛から「何故、以前掘った場所を改めて掘るのか」とクレームを付けられた。
なんでもトレンチを設けた場所が古代学協会が発掘を行った場所の近くであったことが原因だったという。
先輩にしてみたら、こんな若造が俺の手をつけた場所を改めて掘り返すなど言語道断という思いがあったのだろう。