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古本屋日誌
2024-09-16 15:21:00
1980年代の熊野寮はそれまでのいろんな左翼セクトの集合体であったところから、黒ヘルノンセクト、農学部のノンセクト、中核派の3グループになった感があった。
1981年の12月には熊野寮を廃止する動きが学生部にあったのに抗議して、本部で大規模な集会がもたれ、デモで教養部に向かう途中、京都府警の機動隊とぶつかる騒ぎとなり、その件で後日熊野寮に、京都府警川端警察署のガサ入れが早朝あった。
それ以外にも本部の時計台の2階にヘルメット姿で入って、抗議活動をしてドアを損壊したとか、1984年の9月の三里塚の用水工事での阻止行動で寮生に逮捕者が出てその容疑だとか、学生部に出向いて抗議活動をしただとか、ことあるごとに熊野寮は早朝から川端警察署の機動隊がやってきていた。
寮生は警察の捜索に抗議はするのだが、押し返すことは出来ないわけで、いってみれば、常に敗北している。
こういったことを振り返ると、保元の乱の焼き直しをなんべんも繰り返しているようにも思える。
あの時は崇徳上皇側は1000騎、攻める後白河天皇側は600だったそうだが、いずれにせよ白河北殿を守る側は、一敗地に塗れることになった。
崇徳院の怒りは、その後、後白河側についたものに降りかかったといわれるのだが、その当の白河北殿🟰熊野寮で、何百回も敗北のデモンストレーションが行われるのは不思議なことだな。
これでは崇徳院の怒りは治るどころか、傷口に塩を刷り込まれたようなもので、おちおち安らかに眠ることもできまい。
むしろこれは襲撃した方、平清盛の怒りの再現なのかもしれない。後に一族が全滅した怒りが未だに収まらず、その腹いせなのかもしれない。