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古本屋日誌
杉本秀太郎の『西窓のあかり』によれば、かつて祇園祭の山には車輪はついておらず、舁き手がずっとかたげて巡行していたとのことだ。
現在は鉾の辻回しが行われる交差点でだけ、かたげて何回か山を回しているが、それ以外は車輪があるから、スムーズに、スピーディーに進んでいく。
杉本はかつて山を担いでいたのは天秤棒で「肥えたご」をせたろうていた百姓であり、現在の「非力な」学生でも車輪のついた山は動かせるが、かたげることなど思いもよらぬことだというのだ。
そうなのか、確かに現在の祇園祭は各大学の体育会系の学生を引き手として雇っているが、かつては町内の人たちがやっていたと思っていた。
ところが山は御神体を乗せたあの重量物を、おうこ(天秤棒の京都弁)で肥たんごをくみにはるばる宇治などの在所から来ていた百姓連中がずっと担いでいたのだ。
つまり趣深い祇園祭の担い手は、杉本が鼻も引っ掛けない在所の百姓連中だということになる。その巡行を見つめる杉本の視線はもちろん、この上ない「雅」を感じていたことは間違いないが、ここにも差別的なものがあることは間違いない。
それはもちろん結構なことだと俺は思う。
壮麗な祇園祭の雅にはこういう「不潔さ」も重要なファクターであったのだ。
彼は雅の条件として「薄暗さ」が保たれていることや、「寒いこと」「清潔と不潔の間」を挙げている。確かにその通りだ。
随筆家の杉本秀太郎は、中京に長らく住んでいて、そのことにプライドを持っていた。
井上章一が工学部の学生時代に杉本の古い屋敷を調査に訪れた際、「あんたはどこの人なんや」と聞いて、井上が宇治だということがわかると「あそこからはな、肥えくみに、ようきてはったわ」と言い放った話を書いている。
杉本の差別意識がよくわかる話だ。
でも、俺は差別はいけないとは全然思っていない。
杉本のような素晴らしいプライドがあるからこそ、祇園祭は存続しているのだし、曲がりなりにも町屋建築や古い建築物が残っているのだ。
その杉本が1983年に筑摩書房からだした『西窓のあかり』というエッセイ集がある。この中に祇園祭への激しい批判を彼は書いているのだ。
まず杉本は祭りを担っていた町衆はとうの昔に消滅して、今は株式会社と自営業の様々な人たちが祭り切り盛りしていることを批判する。
彼らの審美眼はなっておらず、金持ちから提供された「安直な」胴掛けが山鉾に使われているという。
杉本が言うには伝統的な山鉾の胴掛けや装飾は京町家に囲まれた狭い路地と合うように、セレクトされていて、現在の広大な御池通とビル群には全く合わないというのだ。
いやもう大変だよね。
杉本の批判を聞いていたら、祇園祭は中世にでも遡らなければ真っ当でないことになってしまう。
でもこういうとんでもない批判があるおかげで、京都は土俵際で踏みとどまって破壊を免ていることも確かなのだ。
今日は糺の森で大規模な古本市、さっそく朝から行こうとしたが、京阪電車が事故のため7時過ぎから不通。
ただ萱島駅に特急が停車していて、これに9時くらいに乗り込むことができた。
結局電車は9時すぎには発車したので、10時5分くらいに会場に着いた。初日で、たくさんのお客さんがきていて素晴らしい。
糺の森には数年前に日本で初めてラグビーの試合が行われたことを記念して、球技全般の上達を願う社が新設され、初めてここでラグビーボールを蹴ったとかの石碑も建立された。
今回行ってみたら、社の横に新たに「授与所」なる建物が建てられている他、社の奥には石を敷き詰めた池が作られて、「有料」スペースなので立ち入りはできない旨の表示がされていた。
以前は大型観光バスの駐車スペースだった糺の森は、たくましい京都人の観光業にかかる意気込みを感じさせる場所になってるね。
今日は朝から薄曇りで、珍しく強烈な日差しはなく、またある程度風も吹いていて納涼と言えないこともない。
北の端に三密堂書店があって、専門は仏教書や占いの本だが、1冊150円でいつものようにたくさん文庫を出していた。
其中堂も仏教書が専門だがわりとたくさん文庫を出していた、これは相場の値段だった。
ぼあい書房はたくさんの面白い文庫本を並べていて目を引いた。
小亀屋は亀岡の古本屋だそうだが、普段は一乗寺にある『アリバイブックス』で本を売っているとのことで、やはり面白い文庫本を並べていた。
赤尾照文堂は古典籍や版画を扱う店で、錦絵が入った豪華な団扇や講談社文芸文庫をたくさん並べていた。広重の江戸百景の団扇など見ているだけで楽しく、目の保養になる。
京都スターブックスは映画のポスターをたくさん並べていた。
小町書店はいつものようにたくさんの文庫や雑誌、単行本を5冊800円で売っていた。中には珍しい本もある。
梁山泊が参加している、前にもらったリーフレットには記載がなかったから急遽決まったのだろう。
花森書林は今回神戸から参加していて、様々なジャンルの本を並べていて、値段が表紙カバーに貼ってあるのでわかりやすい。
汎書店はマンガやいろんな文庫をたくさん並べていて、店主と息子さんでレジをしていた。
今は夏休み中なのでこの本屋に限らず小さい子どもがレジで本を包んだり、お釣りを渡したりしていて微笑ましい。
石川古本店もたくさん均一本を持ってきている。ただいつもあった文庫本の、背の高い本棚は今回はなし。
竹岡書店も3冊500円で大量の単行本を出しているのはいつも通り。それにしてもこれだけたくさんの、重たい単行本を並べる苦労は並大抵のものではないだろう。
(承前)
1999年の12月、日能研関西(中学受験の進学塾)の講習打合会後の出来事を振り返っている。
算数課のマネージャー(課長にあたる)の1人だった酒井が「それは東さんの方から言ってもらわないと」と電話でゆうたのは「灘クラスの担当者の宴会に出なくていい旨を、東さんの方から自分に指示してもらわないと困る」ということなのだ。
だから電話を引き継いだ東も「そうか、それならわかった」とごく冷静に対応したわけだ。
社内の立場の違いがあるから、宴会とゆうはものの、実際には会議であり、灘中学を受験する生徒の情報交換の場である以上、欠席は上司の許可を得ないといけないという判断は妥当だろう。
ただ2人は友人であり、5月と8月の連休は俺も加わるのだが、毎回沖縄に旅行に行っている仲なのだ。
つまり特別親しい関係であるから、社内の上下関係を杓子定規に守る水臭さを嫌う考えもある。
だから課長である酒井が、部長の東に例えば「俺は出ないから、適当にゆうといてよ」と言ったらそれで済むことも確かなのだ。
でも酒井はそれをしなかった。
これは彼のきちんとした性格ゆえもあるのだろうが、俺はある程度東への揶揄の気持ちが含まれていると思うのだ。
(承前)
去るものは日々に疎しということなんだが、所詮は一般論で、時間が経っても思い出したくないことや、考えたくないこといくらもある。
日能研関西(中学受験の進学塾だ)での、1回目の過労死事件は、その際たるものだった。
しかしさすがに四半世紀近い年月をけみしてみると、ようやく一つの歴史として考えてみたい気分になった。
1999年の12月の、灘中クラスの合同授業、冬期講習打合会、そして灘クラス担当者の宴会のことだ。
俺も、初めの頃は打合会の後で開かれる宴会に出ることがあった。
中之島や新神戸のホテルで開催されることもあったのだが、宴会と言っても、別に気の合う人と飲んでいるわけでもないし、かなりの部分は、次の会議の日程調整や、クラスの雰囲気についての担当者同士の意見交換に費やされる。
要するにかなり仕事の要素が入っているということなのだ。
俺はそもそもマイペースな人間だから、これが気に食わないので、すぐに出なくなったのだ。
算数課のマネージャーだった酒井の発言に関して、俺はこの当たり前のことをすっかり忘れていた。
灘中を受ける子どもの現状とか、親からの要望とか、今後の方針とかあれこれが酒を酌み交わしながら、ああでもない、こうでもないと論じる場なんだろうと思うのだ。
だから酒井が電話で俺に「東さんの方から言ってもらわないと」といった言葉は、「東さんの方から自分に、この宴会は会議みたいなものだが、あなたは出なくていいと指示を出してもらわない」という意味だったのだ。
東は部長待遇だったから、酒井の上司なので、いくら大学時代からの友人とはいえ、社内ではデュープロセスが優先されるという考えなのだろう。
これは筋が通っている。
では本当にそれだけの意味だったのかというと、俺はそうとも言えないと今は考えている。