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古本屋日誌
今朝は昨晩からの雨が止まず、なかなか気合の入った降りかたでした。
大阪市中央区出身で、靱公園のテニスコートにも通ったことがあるという大坂なおみが全米オープンで優勝しました。テニスは野球やバスケ、レスリング、ボクシング、ラグビー、アメラグなどあまたあるマイナースポーツとは違いグローバルにどこの国でも楽しまれているメジャースポーツの筆頭でそれだけに競技人口も桁違いに多い中での優勝、その価値は計り知れない。沢松奈生子はなかなか強かったが、パワープレーには付いていけず、結局相手のミスをしそうなエリアをめがけてボールを打つことがしばしばあってちょっとかわいそうだったなあ。大坂は父親がハイチ系アメリカ人だそうだが、どこか日本人離れしたパワーの持ち主で、体つきも胸板が厚そうだし、腕っぷしも丸太ん棒のように太そうだし、いろんな意味でこれまでの女の日本選手とは違いますね。
大阪市もこれを好機と捉えて大坂なおみの生家を顕彰するとか、全米制覇の道はここから始まるなどのイベントを企画するしたほうが良い。
しかしギャラリーの連中が優勝セレモニーの時までブーイングしているのは見苦しい限り。アメリカ人はバカなのかな。
目良浩一の「アメリカに正義はあるのか」が出て、アメリカのグランデール市に慰安婦の像が建てられ、日本の悪事を正すような碑文もあるので、アメリカの司法に市当局の不当性を認めさせようとする裁判があり、その記録です。碑文は日本が慰安婦を強制連行して性奴隷として働かせたとする内容になっていますので、それはないだろう、一方的に韓国の立場を認めているのは不当だとするものですが、アメリカは第二次大戦の責任を日本に押し付けようとする立場ですから、日本の蛮行を宣伝できる話は国益にかなうのでむしろウエルカムなんだとあります。
まあ確かにアメリカはそういう国であるだろうし、何でもやりすぎるところもある。無差別爆撃や原爆、朝鮮戦争での原爆使用検討、ベトナム戦争のソンミ村事件と必要もないのに過剰に敵をいためつけようとする。その上で十分な恩恵をわが国は受けていて、核の傘の下でぬくぬくと太平の世を謳歌できているし、その核戦力があって北朝鮮を屈服させることもできたわけです。
先日北河内で出ていた「まんだ」という郷土雑誌をかなりたくさん入手できました。
その54号は1995年の3月発行で例の神戸の大地震の直後ということもあり1854年に起こった三回の大地震の記録が載っていて四條畷市の堀溝の庄屋の日記です。ものすごい揺れが1年に三回も来た上に絶え間なく余震でそれこそ生きた心地もしないわけですが村人の対応は不思議なことに理性的で家では寝ずにしっかりした納屋で休むとか、昼間も家は傾いているので避けて、畑に穴を掘ってそこで作業や食事を取るとか、余震の数を詳細にしるしたり、発光現象や地鳴りを記して次の地震を予想したりしています。他に大坂市中にはびこる噂話が書いてあって変な婆さんが「わしの酒を飲め!」と入って来たらその家は全滅するとの噂が流れていてどの家も「酒はいりません」なる張り紙をしているとある。大坂市中の方が迷信や噂に惑わされていて田舎の方が冷静で理性的とは面白い。
この時はものすごい津波が大坂市中に押し寄せ天保山からミナミ、道頓堀は水没するほどの大損害となりたくさんの人が流されて死んだが、100年も経つとみんな忘れてますな。まあ歴史はどんどん風化するのは当たり前ですな。大阪大空襲なんか2、3年でみんな忘れてアメリカ様ありがとうございます❣️だからね。
少し蒸し暑いですが、暑さもひと段落ついた感じですね。先日西部邁の「剥がされた仮面」を入手しました。西部は中沢新一を東大教養学部に招こうとして、手続きはなんの問題もなく進んでいたのに、折原浩らの策動で「中沢新一のやってることは実証的ではない、学問とは言えない」「選考プロセスに問題があった」とのキャンペーンが行われて結局教授会で、採用が否決され、西部邁はこれを問題視して大学を辞めました。
まあ中沢新一のやってることは私は全く馬鹿げていると思っていますし例の「大阪アースダイバー」なる本も適当な古代礼賛、けむにまくような内容で全く感心しません。まあしかし大学で招くと決めたんだったらそうしたらいいだろうし、西部邁の怒りには共感できます。だいたい「翁童論」を書いて高僧の悟りはジェットコースターに乗ってる際の無我の境地と同じだとか、赤ん坊と老人は形も精神もよう似ている(赤ん坊も年寄りもシワシワだし、言ってることもともにようわからん)から古代人は老人が死ねばあの世では赤ん坊に生まれ変わると信じたとか主張している鎌田東二が京大の先生になってるわけですから、中沢新一でも問題ないでしょう。天牛書店では鎌田東二の本はオカルトコーナーに置いてありました、正しい判断ですね。
西部邁はこの本の中で東大の教師はバカが多くていったん採用されたら安心してその後20年経つのに単著はおろかまともな論文すら書けない教授がいっぱいいることを批判し、教授に採用の年限を設けるとか、アメリカ式に業績が出なければ解雇するような処置が必要だと言います。まあそりゃそうでしょう。東大でもその程度だし他のどうでもいい大学はあってもなくても誰も困らないでしょう。講義といっても大した内容をやってるわけでもなく、普通にちゃんとした本を読んだ方がよっぽどましです。あんな講義に年間140万も払わすとはその厚顔無恥ぶりには恐れ入る限りですね。まあ払う方もバカですな。
今年は地震やら水害やら台風やらがえらい多うて、困ったもんですね。
先日藤澤桓夫の「朝の歌」「傷だらけの歌」「私は見た」を入手しました。私は藤澤の作品はどれも大してうまいとは思えず、なぜこの程度のものが出版できたのかの方に興味があるくらいです。確かに「大阪自叙伝」というエッセイや「回想の大阪文学」といった実録物は類書が無いせいもあるし、大阪高校のバンカラ振りや波屋書房の面白い経営やスミカズの話など資料的な価値があるんですが小説はどれもこれも人物描写がデタラメでとても普通に生きている人間とは思えません。ストーリー展開もまどろっこしいばかりで深みがない。ただ風俗小説として読んでみると浜寺が高級住宅地だということや、浜寺から河堀口に出るには天下茶屋で乗り換えて天王寺支線を使うとか、四條畷の名物は鴨料理で、飛来した鴨を朝仕留めてすぐに食卓に供するとか、それなりには面白い。ただ主人公ごカフェーに行こうとしている青少年を見とがめ一喝して説教して「カフェーに行くような人間は最低だ」とかいうのには呆れた。私などキャバレーに中学の頃から行っていたし、私の周りでも例の巨大キャバレー「メトロ」に子どもの時に親といったと話す人はいくらもあるわけだから、藤澤先生はどこかおかしいのではないのか。